社説動向

 難問に見える問題は問題だけを見れば、解法の原則ははっきりしているので切り分けて整理は可能。ただ、日本人は、事実をそれ自体で扱えず、その政治効果と混乱し、解法をイデオロギーと同値するから、こうしたタイプの難問は解けない。私にしてみると、ああ、これは解けないのだろうなで、終わり。私は現下の人権問題以外に、最初にイデオロギーの視点はもたないし。

毎日 社説:邦人記者殺害 シリア報道への脅迫か− 毎日jp(毎日新聞)

 近年の紛争地では記者と知りながら攻撃する傾向も目立つ。政府軍と反体制派が情報戦を展開するシリアにあって、反体制派と一緒にいた外国人記者たちが問答無用とばかり銃撃された可能性は大いにある。仮に山本さんが意図的に殺されたのなら、ジャーナリズム全体への卑劣な脅迫というべきである。

 それはそうなんじゃないの。

 一瞬にして状況が変わる戦地の恐ろしさは山本さん自身がよく承知していたはずだ。それでも死を避けることができなかったことを、重い教訓として受け止めたい。報道関係者の死を防ぐためにも、経験豊富な敏腕記者がなぜ死に追い込まれたのかを厳密に検証する必要がある。それこそが山本さんの遺志にかなうことだと考えたい。

 そこは逆で殺されるとわかって戦場に入っていくのが欧米のジャーナリストだと思うが。

読売 首相と反原発派 禍根残す面会パフォーマンス : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 むろん国民の多様な意見を聞くことは重要だが、首相はこれまでも国会論戦や記者会見などを通じてさまざまな意見に接し、国民の疑問に丁寧に答えている。
 枝野経済産業相は、首相とデモ代表との面会について「直接に誰かだけとやれば誤解を招く」として、パブリックコメント(意見公募)や討論型世論調査などを活用すべきだと主張している。

 まあ、そうでしょう。

朝日 竹島提訴―大局に立つ日韓関係を : 朝日新聞デジタル:社説

 日本政府は1965年の日韓協定で解決済みとの立場だが、93年の官房長官談話で旧日本軍の関与を認め、謝罪した。民間主導のアジア女性基金を通じ、償い事業も行った。
 そうした努力自体は韓国の人たちにも理解してもらいたい。その上で、まだ出来ることがあるのか、両国で考えればいい。

 すまん、コーヒー吹いた。「両国で」って、中国様、出てますって。ここは日本の朝日新聞ですよ。

 残念なのは、日本側で歴史認識への疑問を呼び覚ますような言動が繰り返されることだ。
 2007年には当時の安倍晋三首相が、当局が無理やり連行する「狭義の強制性」はなかったと主張。米下院が日本に謝罪を求める決議を採択するなど、国際社会で強い批判を浴びた。

 これねえ。
 ⇒衆議院議員辻元清美君提出安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問に対する答弁書

一の1から3までについて
 お尋ねは、「強制性」の定義に関連するものであるが、慰安婦問題については、政府において、平成三年十二月から平成五年八月まで関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、同月四日の内閣官房長官談話(以下「官房長官談話」という。)のとおりとなったものである。また、同日の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである。

 これ、安倍元首相の創見ではなく、平成五年時点の政府見解を問われて明瞭化したというだけの話に読めるが。つまり、安倍元首相が変更したというより、政府側はそう認識していたということではないのか、いずれ官僚答弁だろうし。
 「米下院が日本に謝罪を求める決議を採択」は、広義の「強制性」ということで、これはこれで正しいで、朝日新聞のこの議論は噛み合っていない。というか、
 なによりも、「残念なのは、日本側で歴史認識への疑問を呼び覚ますような言動が繰り返されることだ」というけど、日本政府の立場は河野談話から実は一歩も動いていない。安倍政権以降の福田首相時代でもそう。
 余談だけど、河野談話閣議決定ではない

三の1について
官房長官談話は、閣議決定はされていないが、歴代の内閣が継承しているものである。
三の2について
 政府の基本的立場は、官房長官談話を継承しているというものであり、その内容を閣議決定することは考えていない。

 この問題だけど、広義の「強制性」という点で日本政府は認めており、それに道義的な対応をしてきたのが経緯。それを法的に扱うかについてはまた別の議論で、これについては未決。また、「狭義の強制性」があるかについても議論の経緯ではあまり明確になっていない。
 韓国側での最高裁判決が韓国政府に行動を促している点については、日本政府も配慮しないといけないが(自民党政権だったら対処していたのではないかな)、これは竹島問題とは別。日本側としては戦争に関連する賠償は済んだとしているが、韓国司法判断は異なるのでこれについては韓国政府と協議する必要はある。その場合、「強制性」がどうとかいう議論ではなく、敗戦処理の一環になる。
 だから朝日新聞社説のこれ

 日本政府は1965年の日韓協定で解決済みとの立場だが、93年の官房長官談話で旧日本軍の関与を認め、謝罪した。民間主導のアジア女性基金を通じ、償い事業も行った。
 そうした努力自体は韓国の人たちにも理解してもらいたい。その上で、まだ出来ることがあるのか、両国で考えればいい。

 「その上で」というのは旧来からの日本の立場の押しつけになってしまうのだけど。
 余談。
 ちなみに、国連=連合国の扱いからわかるが、戦中までの朝鮮は日本の一部なので、基本的に日本国民に対する補償を、その後の韓国独立に合わせての外交手順になるのではないかと思う。とすると、国内補償との釣り合いが問われるように思うが、日本人慰安婦についてはどういう補償だったのだろうか。ついでに連想だが、台湾人の戦死兵に対して日本政府は補償してなかったと記憶している。90年代にこれも問題化して、弔慰金になった。こうした問題はまず、台湾兵への補償から始めてはどうかと思う。

朝日 首相との対話―開かれた政治の一歩に : 朝日新聞デジタル:社説

 両者の溝は埋まらなかった。それでも意義は小さくない。

 デモ側がばらばらでしゃべりまくりでは無理でしょ。意思統一してきちんと要点を整理して野田ちゃんに語らせて、噛み合わせないと。

 経済団体や労働組合に属さぬ「組織されない市民」が首相に直接訴えるのは異例だ。これまでの政治の意思決定の仕方や、政治文化を変える可能性をはらんでいる。評価したい。

 逆だと思うよ。そのうち、ネットウヨさんとかが同じことをやりだしたときも朝日新聞さん、評価してあげてくださいね。

 これを、開かれた政治への一歩とすべきである。

 開かれた一歩にするには、首相というリソースを効率よく使うシステムを考えるべきですよ。日本は大国でスイスの村じゃないんだし。

そういえば

 眠れないときは苦しむことにしている。二時間くらい続くならしかたないと思う。三時間くらいになるとけっこう苦しい。ただ、最近そこまではなく、未明を見ることもない。睡眠は浅いが、眠るには眠っている。
 眠る兆候は、普通の人は「眠い」ということなんだろうが、私の場合、ある奇妙な不快感がある。何にも関わりたくない。思念に関わりたくない。不愉快だみたいな感覚から意識が眠りに消えていく。この不愉快な感じが苛立ちなのかそうではないのかというのがよくわからない。ただ、そういう傾向がある。
 が、昨晩、眠れないでいたのだが、ふっと静かい意識が弱く、安らかに消えていく感じがあった。ああ、これは死ぬんだろうなとそのとき思った。私にとって死の恐怖はなんども書いてきたが強烈なものだ。だが、昨晩はそうでもなかった。静かに自分の意識が黒い小さな点のようになって死んでいく感じだった。痛くもないし、もう生きていてもさして意味もないから、このまま静かに死んでいくのもいいんじゃないかというとの、恐怖ともちょっと違うがやだなあ、もう死んじゃうのか僕はという葛藤が起きたい。どっちにするか心が揺れているなかで、一端意識を覚醒させ、不愉快のレベルに戻した。しばらくして寝た。あの小さな黒い点のように意識が縮退していく感じはなんだったのだろうか。また来るんだろうか。

「何という愛」コーリー・テン・ブーム

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何という愛
 コーリー・テン・ブームの「わたしの隠れ場」を読もうとしたのだけど、絶版らしく、現在購入可能な、「何という愛」を読んだ。小冊子なので、数時間で読めると思う。人によっては圧倒的な感動を受けると思う。
 邦訳書は三部構成で、第一部は病む人や死を恐れる人に向けた短い説教。これはけっこう自分にそのままつきささる話。第二部はコーリーの収容所体験に関連した話。「わたしの隠れ場」と重なるのではないかと思う。手短に書かれているが恐ろしい話と感動的な話が書かれている。第三部はアフリカを含め各刑務所で死刑囚などと対話した話。これもインパクトがある。
 ざっと読むと、いわゆる福音派の普通の信仰のように思えるし、以前の自分なら、史実は参考になるけど、信仰は、まあ、こういうのあるよねくらいで読み飛ばしたかもしれない。今の自分からすると理解の補助になっている部分がけっこうあって驚いた。もちろん、福音派的な信仰と自分の理解と異なるところもあるが、それでも、贖罪については、コーリーのこれでもよいんじゃないかと思えた。
 シンプルにキリスト教の信仰のエッセンスが描かれていて、こういう信仰にすっと入ってすごされている方は恵まれているのだろう。私は複雑になりすぎた。
 話が前後するがコーリー・テン・ブーはこういう人⇒コーリー・テン・ブーム - Wikipedia

コーリー・テン・ボーム(Cornelia Johanna Arnolda ten Boom、Corrie ten Boom、1892年4月15日 - 1983年4月15日)は、第二次世界大戦中に多くのユダヤ人をナチスから助けたオランダ人クリスチャン、ホロコースト生残者である。テン・ブームはその体験を、同名の映画にもなった自伝『わたしの隠れ場』の共著で著した。1967年12月に、イスラエルから諸国民の中の正義の人の栄誉を受けた。

 偶然だろうけど、コーリー・テン・ブームは誕生日に死んでいる。
 他にこれに詳しい⇒テン・ブーム博物館
 ⇒テン・ブーム一家

 ウィレム・テン・ブームは1837年に時計店を開きました。この一家は敬虔なクリスチャンで、その時計店の上の階を必要がある人々のための[オープンハウス]としていました。
 1844年、霊感に満たされたオランダ改革派のある礼拝後、ウィレムは毎週ユダヤ人とエルサレムの平和のために祈る(詩篇122篇:6節)の祈り会を持ち始めました。 彼の息子キャスパーは自分の家族と共に一家の伝統である祈りを継続しました。この祈り会は、1944年2月28日にナチスの兵士にキャスパーとその一家全員が「ユダヤ人をかくまった」罪で逮捕されるまで、100年間続けられました。
 世界第二次大戦中は、テン・ブーム家はクリスチャンとしての信仰を、自宅をナチスによって追われていたユダヤ人や地下運動員のための逃れの場、また隠れ家として提供することによって表明していました。

 実際には、福音派というより、オランダ改革派なのでカルバンに系譜なのだろうか。彼女の信仰を見るかぎり、予定説的なものはないようだが。
 「わたしの隠れ場」の経緯。

 1943年から1944年にかけては、テン・ブーム家にはたいてい7人もの不法のユダヤ人や地下運動員が暮らしていました。それ以上の逃れ場の必要な人々はテン・ブーム家に数時間、または数日の間、別の「安全な家」が見つかるまで滞在していました。コーリーはハールレムの地下運動のネットワークのリーダーになりました。コーリーと「ベジェのグループ」は逃れている人々を受け入れる勇気あるオランダ人の家族を探しました。コーリーは一旦隠れるようになった人々の世話をするためにほとんどの時間を費やしました。 これらの活動を通して、テン・ブーム一家とその多くの友人たちはおよそ800人のユダヤ人の命を救い、地下運動員を保護しました。
 1944年2月28日、キャスパーの家族は裏切られ、ゲシュタポナチスの秘密警察)が家を強制捜査しました。ゲシュタポはわなを仕掛けて1日中待ち、その家に来た人を残らず逮捕しました。夕方までに20人以上の人が監禁されました! キャスパー、コーリー、べッツィは皆、逮捕されてしまいました。コーリーの兄ウィレム、姉ノーリー、それに甥のぺーターもその日はその家にいたので、牢獄に連行されました。.