曇天、でも、通り雨かな

 いろいろ思った。このところ寝る前にビールを一缶飲むのが癖になりつつあるので、癖というのもなんなのでやめとくか。それとも水泳のあとビアガーデンでも物色するか、でもそうすると食事が乱れるしとかとか。で、昨日は奇妙な乾き感もあって、あと半缶ほどのみ、なんとなく寝てしまった。裸に近いかっこうで寝たので身体が冷えたのか明け方目が覚めると喉が少し痛かった。いい気になって若いノリで生きていくことはできないなと苦笑しつつ、ぼんやりした頭にぼうっと宇多田の曲とかぶちこんで目覚め、いつもの朝食。この数日feecleは食事ブログになりつつある。実際自分がどんなもの食っているのか自分でもあんまり自覚してないからいいかな。けっこう食は波がある。
 ぼんやりといろいろ思った。身体がだるっとしているせいか朝立ちが弱い。と思い返すと、昨日もけっこう泳いだのだった。どうも身体にスタミナというか持続力がないな息が上がるなとか思いつつ、結局一時間泳ぎ通した。筋肉痛とかはないが、これから出るのか。体脂肪率は18だった。まだ落とせるというか落としたほうがいいようにも思うが、案外よくわからない。水泳ではあまり脚を使わない泳ぎが多いのだが、その分、脚のエキササイズにはならない。別のトレーニングでもするか。というあたりで、30代のころのボディワーク趣味っぽくなってきている。ということは、ヨガを戻せよか。

なんとなくはてなの暗さ重さを感じるようになった

 なぜだろう。feecleのせいかな、他の個人的(性的)な気掛かりのことか。よくわからない。twitter的なものはなにかネットの意識を変えるのだろうか。あるいは今頃私はmixi的なネットワークの領域に入ってきたのか。なんとなくだが、はてなをはじめたころの親密さの感覚もある。
 はてなが変わってきたのかもしれない。ぶくまについては批判はない。どうにでもなればいいんじゃないかと思いつつ、じゃ、自分ではどう思うかというと、あまり関心が持てなくなりつつある。
 増田は? 増田もなんかテンプレ化してきているように思う。話題のテンプレというより、参加数のシュレショルドと実際には、Mr/Miss増田というかコアが生まれつつあるのだろう、そのあたりの活動が臭いというかうるさいというか。そのあたりは、増田から出たらいいんじゃないかとも思う。たぶん、増田はシステム的ななにかの工夫が必要なんだろうと思うがそれがなんだかわからない。mixi/twitter的には話題から偏差を掛けたお気に入り増田トレースの仕組みがあるといいのかもしれないが、どうやるのか、それでいいのかもわからない。
 ああ、なんとなく思ったが、誤解しないでほしいが、マルコ青年の活躍が目につく。彼はもともとねらー的な人だったのではないかと思うが、ブログのほうが活気づいているようにも思えるし(たぶん、本格的な思考志向の人なんだろう)、反面フットワークとそのフットワークと思考の速度のなかで現れる他者にある異和感があるのだろう。そのあたりは、なんというか、案外本質的な問題かもしれない。ま、マルコ青年の話はそのくらい。悪意でも批評ってことでもないので軽くね。
 さよならを言った人のことは私は言及しない。ただ、その中間的なというか、ほぼさよならを言ったブロガーもいないではない。たぶん、私はfinalventにも少しさよならを言いつつある。自分を偽装的に彼と呼ぶのはなんだが、彼はまた彼の孤独のなかでそれほど受けもしない文章をまだ書くのかもしれない。
 ブロガーが自滅していく、とも思わない。だが、何かの流れでどんどん過去に押し流されていく印象はある。そんなものかもしれない。
 そういえば検索などでときたま2ちゃんスレがヒットして読むことがあり、その最近スレはと覗くことがあるが、あるいはまとめサイトで2ちゃんスレも読むことがあるが、異和感というより遠い。全体のPVが落ちているらしいがよくわからないし、総じてうまく表現できないのだが、老いている印象がある。ねらー的な固まり、あるいはねらーとして存在することがネットのある動向から老いのような印象を与えるというか、ねらーはねらー的な発言を強いるある種の権力の内側に捕捉されているのではないか。まあ、ねらー批判にとらないでほしいが、ようするにこれはシステムの問題ではないか。
 web2.0だのよくわからんといえばよくわからんし、以前、洒落で「極東ブログ: グーグルは何かを知ろうとしている」を書いたが、洒落だけで書いたわけでもない。というかまじでオントロギーの話を書いても通じる人は可視にはならない。ま、それはそれとして、オントロギーの領域なのかよくわからないが、電子的に作成されたコミュ、あるいは集団思考のプラットフォームというのはその設計で存外に大きな、思考介在的な権力を持つように思える。現状では、Googleは私と近い。
 セカンドライフ? まるでわからない。やればまるでわからないわけでもないだろう、というか、欧米人の身体的な性欲幻想にマッチはするだろうが、日本的な性幻想性にはマッチしないだろう。もっと日本人の性はアニミズム的であり、そのアニミズム的なエロスを解放するような幻想性でないとノリがわるい。もう一つの生命、もう一つの世界、というふうなリアル人生・世界的なものアンチテーゼというのは日本的ではない。そして、たぶん、この日本人の奇妙な性幻想がおそらく世界を圧する創造性の端緒にはなっていくのだろう。
 梅田さんがよく若者に未来があるとして、そして語りやすく、知の切り口を開く。しかし、彼自身が若さに期待してるものは知の高度化ではない。もっと、自由といったもののなにか近くそれはたぶん彼の20代から30代の人生の基礎のなかで直感されたものだ。彼と限らず、人は、あるいはある種の人は、自由という難題を背負い込む。
 この電子的な世界がどのようにその多様な自由を実現していくのだろうか。それは新しい各種の権力=力、との関係に置かれている。
 話が飛躍するが、ジャーナリズムや思想といったものが問題なのではなく、電子情報的なシステムがハーネスする自由と幻想のある混合のようなものにどう自分を巻き込んでいくのか。その巻き込みなかで、本当の意味でのリアル世界(本当という意味は社会的なスターテスではない、食ってセックスして子を育てるということだ)にどうリフレクトされるのか。そのリアルの領域のなかでどのような自由のツールになるのだろうか。

私は他者との関係においてスタイルはもたない

 というかそれに忌避感がある。対人的な美学はもたないというべきか。
 そのあたりの奇妙な錯綜感がネットのなかで見られることが多いように思うというか、本当に自己を壊して投企というか、実存的な可能性を進めていく人は少ない。たぶん、エクリチュールが本来的にスタイルという権力を人に強いるからだろうし、そのなかで人はスタイルの司祭になり、各種の手法で人を支配する欲望にからめとられてしまうのだろう。
 たぶん、コミュニケーションという言葉で覆われているのは、ある種の権力だし、空気を嫁など、本当は噴飯以外のものではない。
 そうした投企というものは、ハイデガーはおそらく自身では理解していただろうが、性の本源的な働きに関連していて、人は性の衝動によって、自己身体という文脈を投企させらるのだ。
 あるいはそのために、世界の側が、「私」にとって限りなく性的であるような力を投げかける。

もっと近づいて(Kiss & Cry) 我慢しないで(You & I)
少し怪我をしたって まぁいいんじゃない Kiss & Cry
Don't worry baby(Kiss & Cry) 考えすぎたり(You & I)
思ってばかりいたって 寂しいんじゃない Kiss & Cry

 そのように世界がなぜ「私」を魅惑するのか。あるいはそう感じられたとき、人は身体を投企していく。

不良も優等生も先生も 恋に落ちれば 同じよね
 
鼓膜に当たるバスドラムと 心地良くつくハイハット
蕩ける様なB-section, B-section, B-section
あなたの笑顔が僕の 心にクリティカルヒット
いつの間にやらHigh tension, high tension, high tension

 この女の子はなぜこんなことを知っているのだろう。いや、おそらく彼女だけではなく、かなり多くの女の子が知っているし、だから、まあ、少し比喩的にぼかしていうと、不良も優等生も先生も、みな、性的に陥落させようとする。というか、彼女自身がそのインセストの性的な欲望に抗しがたくなる。なぜ? 心地良くつくハイハットだからだ。ドラムは身体のなかでなっているし、性がうずく。

被害者意識って好きじゃない 上目使いで誘って共犯がいい

 たぶん、それが、生=レーベン、というもののある露骨・出現なのだろう。ドイツ哲学者たちはそれを小難しい言い方で抑えようとした。が、結局根にあるのはそれだ。ヘッセがかろうじてヘルミーネにわたしとセックスしないと語らせてみせた。
 たぶん、中年の男たちに死や、不埒な事件を起こさせるのは、そうした部分の死の側からの身体の棄却の原理が働くからだろう。男たちはどこかで死んでもいいやこの糞世界と思っている。
 出口はない。

これってもう泣けそう

 ⇒livedoor ニュース - <パスモ>スイカも所持75% 併用ニーズ見誤り

首都圏の私鉄・バスの共通ICカード乗車券「パスモ」を運営する「パスモ」が行ったアンケート調査で、パスモ購入者の約75%がJR東日本の「スイカ」も所持していることが9日、分かった。「相互利用が可能なスイカの所有者はパスモを買わない」という当初の見通しの甘さが裏付けられた格好だ。 

 そういえば、先日、ATMのところで婆さんがぶつぶつ言っているのでなんだろと困ったことでもと思ったら、数字でやんの。ずんとぶっとんだ。

釣られとか思わないわけでもないがbewaadさん偉いよ

 わたしゃスルーしたけどね(でも今頃釣られる)。
 ⇒「年金を受け取れる権利」は当然存在します | bewaad institute@kasumigaseki
 制度上としての制度と、加入者の信頼の問題は別。
 ぶっちゃけいえば、年金は国家が存続する限りもらえる(つうか税の配分までおまけ付き)。ただ、その時のカネの価格がどうよということだけが問題、つまり、シニョリッジというかね。
 まあ、毎回釣られるbewaadさんに頭が下がります。ある意味、ブログ守護神でしょうな。
 でもま、この件についていうと。
 ⇒はてなブックマーク - isologue - by 磯崎哲也事務所 : 「年金を受け取れる権利」なんて、もともと存在しない

2007年06月08日 I11 年金, 賦課方式, 磯崎哲也, 妄言 賦課方式であることは間違いないが、「年金受給権」という権利は法律上の権利としてちゃんと法律条文に明記されている。磯崎哲也は再配分方式の議論と権利の議論とを混同している。磯崎はほんとに税理士なのか???!

 I11さんまでいつものユーモアを抑えてべたな正論吐いているから、釣りは釣りかな。

一行レシピ

 ⇒【2ch】ニュー速クオリティ:1行レシピ
 ⇒はてなブックマーク - 【2ch】ニュー速クオリティ:1行レシピ
 ほいじゃ、私も。
 
 シャトーブリアンにフォアグラとトリュフのソース。
 

        ζ 
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   (6-------◯⌒○- |     ______________ 
   |  〃 _|||||||  |    / 
    \   \_/ /   < かあさん、肉に火が通り過ぎだ。
      \____/      \ 
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まあそうなることはわかっていたのだけどね

 ⇒コムスン指定打ち切り、利用者の不安広がる : NIKKEI NET:社会 ニュース

人口の27%を65歳以上の高齢者が占める北海道室蘭市。約百ある介護事業所のうち、自宅での入浴介助を手がけるのは「コムスン室蘭ケアセンター」だけで、22人の利用者から「サービスがなくなるのか」と案じる声が出ている。

 ⇒県内、動揺広がる コムスン指定打ち切り

約一年半、コムスンを利用したという同市の五十代の主婦は「ヘルパーさんもいろいろ。それはどの事業所も同じで現場は一生懸命やっている。ただ、私の担当は四人も変わった。うち、二人は精神的なものが理由と聞いて、仕事がきついのかなと思った」と振り返る。また、同市の男性(29)は「コムスンは二十四時間対応なので助かっていた。だが、(私が)時間的に長く利用しないと金にならないとヘルパーに言われ、利用をやめた」と話していた。

 ⇒コムスン処分に困惑 : コムスン処分に困惑 -動画ニュース STV

)「こちらが利尻富士町コムスン事務所。きょうも通常の業務が行われています」利尻富士町では2年前から訪問介護サービスを全面的にコムスンに委託しています。24時間、土日も業務というのがウリでした。しかし今回の国の処分で4年後には事業所の指定が打ち切られる見込みです。"大手"という信用が委託の決め手だったという町では突然の事業所打ち切り問題に戸惑いを感じています。(桜庭福祉課長)「委託する側としたらびっくりですよね。事務所として説明責任があるので来てくれと要請している」町内には、コムスン以外に受け皿はありません。町では、サービスが継続されることを期待したいと話しています。

世の中は嘘でできている?

 ⇒たけくまメモ : 最近の雑感

それで、俺がバブル前夜だった10代末からず〜っと思っていたことは、「世の中は、基本的にウソでできている、覚めない夢なのではないか」という漠然とした感じでした。これは、思春期の子供がよく抱く妄想なんだそうですが、俺は40をとうに越えてもまだ拭えないでいます。

 私はちょっと違うかな。
 世の中、嘘が多いなとは思う。覚めない夢というより、ちょっと正直なことをいうと転生の感覚のようなものはある(感覚としてだけね)。
 私が思うのは、なんというか、私は一種の独我論者もであるので、世界というのは私だけに与えられているとまず起点として考える。世界は私からしか見えない。しかし、どういうわけか、私の人生は世界の運動の端役というかゴミだった。なんかとてつもなく不出来な間違った小説を読んでいるような感触はある。ただ、じゃあ、私が普通の物語のように世界の主人公であるべきかというと、そこはそう単純には思わない。このあたりが実に微妙。
 私が好きな人は私を好きではない、ま、よくあることというか、普通にあることだが、「私が好きな人」は私の世界のなかに他者としている。それは、なんというか、私の世界の中だけで他者としての意味付与されている。
 そのあたりの受容の感覚に、どこかしら狂気の扉がそこここに開いているような気がするというか、恋とかはどこかしら狂気だ。だが、その狂気なくして世界が私に意味を持つことはない。
 この問題は、実にやっかいな問題だなという以外ないが、しかたない。
 こう書いてもうまく言えてないし、誤解されるかもだけど、ま、いいや。ついでにいうと、世界はどこかしらその構造故になんかテレパシーみたいなことはあるんじゃないかと思う。ま、べたにテレパシーがあるとか言わない。茂木っちみたいに偶有性とかで留めておくべきかもだけど。

まあね増田

 ⇒finalventは何故か増田も気にかけてるんだね。

 爺が言ってるように腐ったコアが出来てるな、どこも一緒だし、しょうがないと思うけど。
 所詮現状じゃ2chと一緒、意識で踏ん張ってるだけで、あそこみたいになんでもありで安易になったら一気に崩れる。もう半分以上ここも崩れかけ終わったところか。

 かもなぁ。
 で、ちょっと誤解されるかなと思うけど、ちょっと例題として突っ込むとだね。
 たとえばこれね。
 増田⇒バカどもだらけでうんざりするぜ
 この増田ちゃん、けっこう偉そうなわけですよ。それなりに知識もある。でも、その水準の話っていうのは、はてなIDがあるならきちんとダイアリーに書けよと思うというか、そうして発言に名前の責を持つべきタイプの話なわけだよ。
 もっとざっくりいうと、増田に向かってお前無知とか言う場合、自然に俺だって私だって無知が漂うように同じ地平の心得というかで書くのでなければ、記名された意見に近いわけだよ。
 で、さらに、たまたまご愛敬で私がバッシングされてもいるけど、増田で記名者のバッシングしたらそれはアレだろくらいは思えよ。
 もちろん、罵倒とかあってもよいと思うんだけど、増田の中にいるということは、ワン・オブ・マスダズなわけなのに、尖った俺ってみたいのが世を忍ぶ仮の姿みたいな隠れで出てきたり、なにげにそのあたりのネガネガのサークルというかグループっていうかつるみっていうか、すんなよ、ってか。
 もうちょっと言うとだね。
 増田というのはナイーブだよ。同じ増田なら罵倒したって増田に同じ位置にいるっていう愛が必要だろ。
 finalventを叩いている分にはいいけど、それやったら他のユーザーとか増田がびびるっていうか、同じように仮面増田スーツになってしまう。
 でも、それって増田かぁ? だよ。
 そういう虚勢のネガネガってもう止めようと思うし、まあ、実際には止められないなら、そういうネガネガが出ないようなシステム作っちゃえよとか思うわけだよ。
 ま、余分だけど、俺を罵倒したお利口な増田ちゃんに別にどって思ってないよ。一例だよ。
 っていうか、書くときはあっちにまとめて書くよ。偉そうなやつはブログ書けってば。
 例えば⇒極東ブログ: お菓子のような避妊薬