私は他者との関係においてスタイルはもたない

 というかそれに忌避感がある。対人的な美学はもたないというべきか。
 そのあたりの奇妙な錯綜感がネットのなかで見られることが多いように思うというか、本当に自己を壊して投企というか、実存的な可能性を進めていく人は少ない。たぶん、エクリチュールが本来的にスタイルという権力を人に強いるからだろうし、そのなかで人はスタイルの司祭になり、各種の手法で人を支配する欲望にからめとられてしまうのだろう。
 たぶん、コミュニケーションという言葉で覆われているのは、ある種の権力だし、空気を嫁など、本当は噴飯以外のものではない。
 そうした投企というものは、ハイデガーはおそらく自身では理解していただろうが、性の本源的な働きに関連していて、人は性の衝動によって、自己身体という文脈を投企させらるのだ。
 あるいはそのために、世界の側が、「私」にとって限りなく性的であるような力を投げかける。

もっと近づいて(Kiss & Cry) 我慢しないで(You & I)
少し怪我をしたって まぁいいんじゃない Kiss & Cry
Don't worry baby(Kiss & Cry) 考えすぎたり(You & I)
思ってばかりいたって 寂しいんじゃない Kiss & Cry

 そのように世界がなぜ「私」を魅惑するのか。あるいはそう感じられたとき、人は身体を投企していく。

不良も優等生も先生も 恋に落ちれば 同じよね
 
鼓膜に当たるバスドラムと 心地良くつくハイハット
蕩ける様なB-section, B-section, B-section
あなたの笑顔が僕の 心にクリティカルヒット
いつの間にやらHigh tension, high tension, high tension

 この女の子はなぜこんなことを知っているのだろう。いや、おそらく彼女だけではなく、かなり多くの女の子が知っているし、だから、まあ、少し比喩的にぼかしていうと、不良も優等生も先生も、みな、性的に陥落させようとする。というか、彼女自身がそのインセストの性的な欲望に抗しがたくなる。なぜ? 心地良くつくハイハットだからだ。ドラムは身体のなかでなっているし、性がうずく。

被害者意識って好きじゃない 上目使いで誘って共犯がいい

 たぶん、それが、生=レーベン、というもののある露骨・出現なのだろう。ドイツ哲学者たちはそれを小難しい言い方で抑えようとした。が、結局根にあるのはそれだ。ヘッセがかろうじてヘルミーネにわたしとセックスしないと語らせてみせた。
 たぶん、中年の男たちに死や、不埒な事件を起こさせるのは、そうした部分の死の側からの身体の棄却の原理が働くからだろう。男たちはどこかで死んでもいいやこの糞世界と思っている。
 出口はない。