なんとなくはてなの暗さ重さを感じるようになった

 なぜだろう。feecleのせいかな、他の個人的(性的)な気掛かりのことか。よくわからない。twitter的なものはなにかネットの意識を変えるのだろうか。あるいは今頃私はmixi的なネットワークの領域に入ってきたのか。なんとなくだが、はてなをはじめたころの親密さの感覚もある。
 はてなが変わってきたのかもしれない。ぶくまについては批判はない。どうにでもなればいいんじゃないかと思いつつ、じゃ、自分ではどう思うかというと、あまり関心が持てなくなりつつある。
 増田は? 増田もなんかテンプレ化してきているように思う。話題のテンプレというより、参加数のシュレショルドと実際には、Mr/Miss増田というかコアが生まれつつあるのだろう、そのあたりの活動が臭いというかうるさいというか。そのあたりは、増田から出たらいいんじゃないかとも思う。たぶん、増田はシステム的ななにかの工夫が必要なんだろうと思うがそれがなんだかわからない。mixi/twitter的には話題から偏差を掛けたお気に入り増田トレースの仕組みがあるといいのかもしれないが、どうやるのか、それでいいのかもわからない。
 ああ、なんとなく思ったが、誤解しないでほしいが、マルコ青年の活躍が目につく。彼はもともとねらー的な人だったのではないかと思うが、ブログのほうが活気づいているようにも思えるし(たぶん、本格的な思考志向の人なんだろう)、反面フットワークとそのフットワークと思考の速度のなかで現れる他者にある異和感があるのだろう。そのあたりは、なんというか、案外本質的な問題かもしれない。ま、マルコ青年の話はそのくらい。悪意でも批評ってことでもないので軽くね。
 さよならを言った人のことは私は言及しない。ただ、その中間的なというか、ほぼさよならを言ったブロガーもいないではない。たぶん、私はfinalventにも少しさよならを言いつつある。自分を偽装的に彼と呼ぶのはなんだが、彼はまた彼の孤独のなかでそれほど受けもしない文章をまだ書くのかもしれない。
 ブロガーが自滅していく、とも思わない。だが、何かの流れでどんどん過去に押し流されていく印象はある。そんなものかもしれない。
 そういえば検索などでときたま2ちゃんスレがヒットして読むことがあり、その最近スレはと覗くことがあるが、あるいはまとめサイトで2ちゃんスレも読むことがあるが、異和感というより遠い。全体のPVが落ちているらしいがよくわからないし、総じてうまく表現できないのだが、老いている印象がある。ねらー的な固まり、あるいはねらーとして存在することがネットのある動向から老いのような印象を与えるというか、ねらーはねらー的な発言を強いるある種の権力の内側に捕捉されているのではないか。まあ、ねらー批判にとらないでほしいが、ようするにこれはシステムの問題ではないか。
 web2.0だのよくわからんといえばよくわからんし、以前、洒落で「極東ブログ: グーグルは何かを知ろうとしている」を書いたが、洒落だけで書いたわけでもない。というかまじでオントロギーの話を書いても通じる人は可視にはならない。ま、それはそれとして、オントロギーの領域なのかよくわからないが、電子的に作成されたコミュ、あるいは集団思考のプラットフォームというのはその設計で存外に大きな、思考介在的な権力を持つように思える。現状では、Googleは私と近い。
 セカンドライフ? まるでわからない。やればまるでわからないわけでもないだろう、というか、欧米人の身体的な性欲幻想にマッチはするだろうが、日本的な性幻想性にはマッチしないだろう。もっと日本人の性はアニミズム的であり、そのアニミズム的なエロスを解放するような幻想性でないとノリがわるい。もう一つの生命、もう一つの世界、というふうなリアル人生・世界的なものアンチテーゼというのは日本的ではない。そして、たぶん、この日本人の奇妙な性幻想がおそらく世界を圧する創造性の端緒にはなっていくのだろう。
 梅田さんがよく若者に未来があるとして、そして語りやすく、知の切り口を開く。しかし、彼自身が若さに期待してるものは知の高度化ではない。もっと、自由といったもののなにか近くそれはたぶん彼の20代から30代の人生の基礎のなかで直感されたものだ。彼と限らず、人は、あるいはある種の人は、自由という難題を背負い込む。
 この電子的な世界がどのようにその多様な自由を実現していくのだろうか。それは新しい各種の権力=力、との関係に置かれている。
 話が飛躍するが、ジャーナリズムや思想といったものが問題なのではなく、電子情報的なシステムがハーネスする自由と幻想のある混合のようなものにどう自分を巻き込んでいくのか。その巻き込みなかで、本当の意味でのリアル世界(本当という意味は社会的なスターテスではない、食ってセックスして子を育てるということだ)にどうリフレクトされるのか。そのリアルの領域のなかでどのような自由のツールになるのだろうか。