まあなんというか

 たぶん、新しい閲覧者のかたなのでしょう。
 ⇒極東ブログ: エキスポランド・ジェットコースター脱線事故メモ

文章が下手すぎ、長すぎで、何を言いたいのかわかりません。
 
投稿 香港豚児 | 2007.05.10 00:02

 まあ、文章の上手下手についてはとくにない。長すぎについても同。「何を言いたいのかわかりません。」というのは、そうなんでしょう。ただ、そういうコメントを書く人の心性に向き合ううんざり感にも慣れていくものです。
 このエントリで私が何を言いたかったかを香港豚児さんにわかるようにリライトすることは、たぶんできますよ。でもそうしないんです。
 ブログをやっていて思うのだけど、上手でわかりやすい文章を書けば正しく理解されてよいというのがあるみたいだけど、相手にわかりやすい文章で理解されるとそのことがよくない結果をもたらすことがある。でも、別の相手には伝えておきたいということがあるとき、文章のわかりやすさを放棄します。
 そのあたり、ほのめかしメソッドとか言われるけど、同じ文章をわかる人にはわかっているという、そういう多面性への想像力がない人はそれはそれでしかたない。
 もちろん、売り物の文章というのは、そういうものとは違い、売れることにオプティマイズされるし、そのオプティナイズはわかりやすさと親和的でしょう。
追記
 この手の話をすると釣られたってことになるんでしょうかね。

日経 春秋(5/10) : NIKKEI NET:社説・春秋 ニュース

 贅沢(ぜいたく)と思われるかもしれないが、ワイシャツは、既製品ではなく、仕立てた縦縞(たてじま)を着る。職場では、冬でも背広を脱いで机に向かったり、会議に出たりする時間が長い。ワイシャツこそ上着だからだ。英語でも「ドレスシャツ」と呼ぶ。

 うーん、ちょっと典型的な文章。この手の文章っていうが昔はおされな文章とかうまい文章だったりする。でもねぇ、ちょっと、うんざりする。また、「ワイシャツこそ上着だからだ」とか議論したくもねえ。
 でもま⇒『週刊東洋経済』コラム・石津謙介「おしゃれスピリッツ」

 ワイシャツは下着だったのだと知れば、ワイシャツの色は白が基本ということもうなずける。今でも「ワイシャツの下にTシャツなどの下着は着ない」というお洒落をかたくなに守っている人がヨーロッパには少なくないのも、下着を重ねることにやぼったさを感じるからだろう。このあたりは、下着から変化したTシャツと非常に似ている。

 それと、もう一カ所。

東京では夏日が続く。暑さをしのぎ、体面も保つにはどうすればいいのか、温暖化とは無縁だった昔の人も頭を痛めた。

 昔の人は仕事を休んだものですよ。
 ⇒「 昭和東京ものがたり〈1〉: 本: 山本 七平」

産経社説 【主張】首相の靖国奉納 騒ぎ立てる問題ではない

今春の靖国神社例大祭には、三権の長である河野洋平衆院議長も真榊を奉納した。安倍首相の奉納だけをことさら批判するのも理解に苦しむ。

 へぇ、それは知らなかった。

毎日社説 被害者の裁判参加 制度導入は論議深めてから

 この議論があるのは理解できるが、毎日新聞がそれに加担する背景がよくわからない。
 総じて言うと、毎日新聞って社としての統一的なスタンスがないんじゃないか、スタンドプレーがあちこちなのでは。

朝日社説 医療ビジョン―開業医は休日も夜も

 これについては机上の空論というか青臭いというか現実離れしているというか。まあ、現実のケーススタディをふまえて議論してほしいのだけど、そうなるとそれはそれで聖人みたいなお医者さんがケースになったりしてまたなんだかな、と。

朝日社説 農業改革―民間議員の提案を生かせ

 これ朝日にはめずらしい正論なんですよ。でも、私は朝日に不信感があって、この正論も世間の空気が変わるとさりげなく変わってしまいそうで。あるいは具体的に北海道の問題とかを論じると、この正論と関係なく論じたりするように思えて。

いいブログっていうかはてダなのになんで読まれないんだろう的

 上から目線のつもりはないけど。
 2つ思うことがあって。

  1. 汚れていないから。
  2. 文章で完結しているから。

 うまく言えないんですけどね。
 いわゆるプロの人の手すさびで書くブログでなく、またそれって結局アフィリでしょでもないのだとすると、文章とか意見がきれいすぎるんじゃないかと思うことがある。ネットの文章って少し汚れた感じのほうがいいと思う。なんか、きちんとしている部屋にあがるとき、うっ靴下これでよかったけとか思うじゃないですか。
 もう一つ、文章が完結っていうのは、某氏とか某氏とか、それなりに人気があって、ほいでそれほど馴れ合いグループでないっていうは、人気があって何よりだし読ませるんだけど、なんか、読んでいる文章、読んでいる人の間というか、その距離感が心地良すぎるというか、リアルその人いたら、ちょっとえー、なんか、いやこんな話題していいのかなみたいな気が張るというか。完結してなくて、えぇえぇバカじゃないのみたなヌケがあっていいと思うけど。
 ま、ほいで、お前さんの文章が汚れていてヌケばかりか、と、ま、そういうツッコミどころがご愛敬っていうか。
 そういえば。
 増田も、なんか、増田スタイルというか増田スタンスがいくつか類型が出てきた感じすると思う増田ヲチなのだが、俺ってリアルがあって増田なわけよとか、私って増田的な増田いますだ、みたいのとか。かまってかまって増田とか。
 そういう類型と、馴れ合い的なグループ化(トピック系列で)ができたときに、増田オワタかな。
 なにか構造的にそういうオワタが回避されるのだろうか。

文章っていうのはけっこう実技なんですよ

 概要とか教訓と理論とかではあまり意味なんですよ。

cover
リンボウ先生の文章術教室: 林 望
 同じ本⇒「 文章術の千本ノック―どうすれば品格ある日本語が書けるか: 本: 林 望」
 ただ読むとわかるけど、結果は林望先生のでもよいのだけど、そのプロセスがわかりづらい。っていうか、つまり、文章っていうのはけっこう実技なんですよ。

多分書くっていうことは考えることだし、ordinaryな生き方を少しずつ避けることだと思う

 問題は、その、ordinaryの語感だけど、はてな語でいう「テンプレ」でしょうね。
 ってことは。
 テンプレに考えたり、テンプレで書くことに、少しずつ抵抗しようじゃないか、ってこと。
 それもまたテンプレとかメタテンプレはなしなし。
 で。
 「抵抗しよう」が先に立つと外山恒一になってしまう。
 重要なのは、「少しずつ」っていうこと。
 大きな抵抗というのは、べたなテンプレですよ。
 テンプレを避けるというのは、微妙さを感じ取ることですよ。
 これはおセックスなんかでも同じで、メカニカルな ← → ← → (ズコズコ) ← → ← → みたいなピストン運動やってんじゃねーよですよ(と、お下劣モードへシフトなテンプレ)。

カラスが賢いと言えば

 ⇒「 とべないカラスととばないカラス (1984年): 本: 舟崎 靖子,上野 紀子」
 嗚呼、絶版。
 ⇒舟崎靖子 - Wikipedia

舟崎 靖子(ふなざき やすこ 1944年5月17日 - )は神奈川県出身の詩人、児童文学作家。別の筆名として童謡・詩で近江靖子、小説・随筆で村上靖子。

1968年秋、克彦と結婚。1969年に長女を出産。

1981年、克彦と離婚。

 ⇒舟崎克彦 - Wikipedia

舟崎 克彦(ふなざき よしひこ、1945年2月2日 - )は、児童文学作家、詩人、挿絵画家、漫画原作者。300冊以上の著書がある。影響を受けた文学者として、谷崎潤一郎金子光晴、西東三鬼の3人を挙げている。柔道三段。森窓一郎名義による作品もある。現在、白百合女子大学助教授。

1964年、一般入試を経て学習院大学経済学部経営学科に入学。借金して第一詩集『いもむしの詩』を栄光社から自費出版したところ、完売して黒字になる。この詩集を買ってもらった女子短大生近江靖子と恋に落ち、靖子の師高田敏子の主宰する同人誌『野火』の創刊に参加。

1981年、妻子ある獣医と靖子との恋が原因で、靖子と離婚。しかし以後も仕事の上での共作関係は続く。

 嗚呼、人生。
 嗚呼、プレ団塊

李登輝、日本の子供たちに語る

  1. FujiSankei Business i. 国際/【日本の子供たちへ】(1)伝統の中に進取の精神
  2. FujiSankei Business i. 国際/【日本の子供たちへ】(2)いまこそ武士道が必要
  3. FujiSankei Business i. 国際/【日本の子供たちへ】(3)日本文化の形成とその特徴
  4. FujiSankei Business i. 国際/【日本の子供たちへ】(4)日本文化の形成とその特徴
  5. FujiSankei Business i. 国際/【日本の子供たちへ】(5)日本文化の形成とその特徴
  6. FujiSankei Business i. 国際/【日本の子供たちへ】(6)日本文化の形成とその特徴

(5)より

 質問 経済力の衰退で日本の将来が危ぶまれるといった発言をよく聞きますが。私たちはどう考えたらいいでしょうか。  
  日本人の中には、日本は悪くなると発言する人がいる。心配することはない。そういうのは言わしておけばいいんだ。少数派だ。テレビなどに出てくる人はああ言うんだ。本当は大多数の日本人はそうじゃない。
 日本人としてもっと自信をもつために(正統な)エリート教育を十分に受けなさい。幅広く諸外国の古典、歴史、哲学、芸術、科学、音楽を学んで、その上で国を愛しなさい。人民を愛しなさい。これが大事だ。

(4)より

 私はかつての日本のエリート教育を受けた。これによって35年かけて得た結論は、私は誰だという問いに対して、「私は私でない私」。「李登輝李登輝でない李登輝」だ。
 あなたの中に、また別の何かが、あなたの中にあるあなたなんだ。私の中にイエスキリストがある。李登輝李登輝ではない。
 この答えは私に正しい人生の価値観への理解を与えた。さまざまな問題に直面したときにも、自我の思想を徹底的に排除することで、客観的立場で正しい解決の方法を考えることができる。
 これが日本文化をもとに、日本教育を通して私に与えられた人生の結論だ。これによって、私の一生涯は国(台湾)のために自分を投げ出した。それ以外にほかのものは何もない。