産経社説 日銀 右往左往では信頼を失う

 景気に配慮した小刻みな利上げで、金利を一定水準に戻しておく意味は大きい。日銀が金利正常化を掲げた昨年7月のゼロ金利解除から半年、日米の歳末商戦が好調だった今回は、利上げのタイミングだったのではないか。
 現在、外国為替市場で進む円安の最大の要因は日米はじめ内外の金利差だ。低金利で調達した円を金利の高いドルやユーロ建て資産で運用して利ざやを稼ぐ円キャリー取引が急増、経済実態を超える円安を起こしている。
 円安は輸出には追い風だが、行き過ぎると不安材料だ。米国が国内産業保護でドル安政策を打ち出した場合、円が急騰し、混乱を招きかねない

 日銀の今回の判断はそれはそれとして、この結果的な円安についてもう少し知りたいところだ。それと、「国内産業保護でドル安政策を打ち出した場合」はどうなのだろうか。

毎日社説 三菱ふそう リコール制度の信頼が揺らぐ

 この問題を飽きもせず持ち出す毎日新聞はよいと思う。

 リコール件数は年々増加傾向を示している。安全に敏感な社会の要請にメーカーが応えているともいえるが、リコールさえすれば「事足れり」との考えも広がってはいないだろうか。行政とメーカーは、リコール制度の意義を改めて自覚する必要がある。

 ただ、これは違うと思う。もちろん企業側には自覚が必要だが、我々の社会が必要とするのはリコールをスムーズに行う制度だ。毎回いきり立って正義に酔っていてもしかがない。

朝日社説 国交省談合 捜査当局の出番では

 今回、公取委がつかんだ水門工事の談合でかかわりが明らかになっているのは、当時の本省の課長補佐とすでに亡くなっている近畿地方整備局の管理官の2人だけだ。一連の官製談合は彼らだけの行為だったとはとても思えない。前任者や上司は知らなかったのか。組織ぐるみで進めていたのではないか。

 特に驚くべきことではないし、捜査当局は動くべきだろう。
 ただ、こうした問題は本当は我々社会の問題であり、捜査当局が動くことを願う社会こそ改善されなくてはならないはずなのだ。私たちから離れた権力をできるだけ分散させること。正義を合意のルールに編み変えていくこと。

朝日社説 利上げ見送り 市場が振り回された : asahi.com :朝日新聞今日の朝刊-国際面

 金融政策をあずかる日銀としても、景気が後退した時に備え、金融緩和の余地を少しでも広げておきたいところだ。
 2月中旬には、06年10〜12月期の国内総生産(GDP)速報が出る。ここで消費の好調などが裏付けられた場合、日銀は果断な判断を下すべきだが、果たしてそれができるのか。

 朝日新聞のこういう主張は論点が違うようにも思う。「金融緩和の余地」や「果断な判断を下すべき」とか。
 朝日の社説を離れて、では日銀は責められるべきかというと、私はこういうのは日銀の正常なプロセスなんだろうと思う。この機構は愚かなことをするかもしれないが、手順の合意は支持されなくてはならないだろうから。

猫猫先生、ウィキペディアを嘆く

 ⇒もうウィキペディアは編集しない : 猫を償うに猫をもってせよ - もうウィキペディアは編集しない
 先生のブログ等で正しい意見を書いておけば、心ある人がウィキペディアに反映してくれるのではないでしょうか。
 私はけっこうそんなふうに楽観的に考えることにしてますよ。すでにいくつか反映されていることもあるような雰囲気だし。

「finalventの日記」が「finalventの日記」である理由

 同じ⇒基本的にはてなは最初から「○○の日記」というタイトルがついている : EreniNo.5
 余談。
 最初はここが極東ブログだった。その後移転に際して閉鎖予定というかどうしようかと思っているうちにこうなった。
 私がはてなの日記を始めたころは「〜の日記」というのは多かったというか、けっこう普通だった。

男が30代半ばで太る理由

 加齢。
 hGHが減少しているからではないかな。余談だけど、DHEAはコレステロールなんでそんなもの別途取るもんかね。
 とま、身も蓋もない話は別として。
 男が30代半ばで太らない場合。1、内蔵が不良、2、テンション高杉かな。私は2でしたね。
 沖縄で隠遁してたら太ったというか体重増えた。デブには見えないにせよ、ま、これは食い物とライフスタイルかな。暑いと運動量が減るのだね。
 沖縄で暮らしながら未婚から既婚に移る人たちを何ケースも見たけど、ほぼ例外なく結婚したらぶくぅと太った。これは内地でもそうかもしれない。ここから得られる教訓は:
 結婚すると、太る。
 であろうか。
 40歳になると男は、女もか、身体にしまりがなくなる。俺の場合は、股の筋肉が落ちて、え?とか思った。
 40過ぎると、痩せた男や女は、ちと哀れげが漂うっていうか、その体系で御節句素はどうよ。

私は神も仏も信じない

 それはただある、とか、ユンクのように言うわけでもない。
 こんなこと言うなよ、今日の一言みたいだが:
 私はあなたが信じる神を信じない。
 というのがま私の人生の此処までところ。結論先に言うとダメだなぁと思う自分がね。ただ、孤独なんだしこうした問題は内面に正直にある以外どうしようもない。
 神は人々の心の中にいて、世界の不正に対して、君の参戦を期待している、というふうに考えることは可能かとも思う。ま、よくわからない。
 ただ、人に心というものはある。どうやらこの虚無の宇宙のなかに「私」はいるようだ。「私」が存在し「心」があるということはこの虚無の宇宙のなかに「命」があるということだし、命のある宇宙とは虚無とは思えない云々って考えると神がいそうだし、いてもええんでないと思うこともある。というか、汎神論ではなく、この今のすべてが神だとか言えないこともないと思う。
 ただ、この問題はそんなめんどくせーことではないなと思っている。
 私はあなたの信じる神を信じない、というとき、密かに私は私の神を持つというか信仰を持つというとき、私は「あなた」と切り離されている。キリスト教神学的にいうと、そこにεκκλησιαがない。ところが神の働きとはまさに人と人の間にεκκλησιαを作るところにある。εκκλησιαなくして神や信仰を問うことはナンセンスなのではないか、かなり、たぶん、蓮如上人宣わく、物を言え、物を言え。
 この問題について、εκκλησιαの内部にいたティリヒは、神はあなたをεκκλησιαの外に置いたのかもしれないという奇妙な示唆をしている。正確にいえば、εκκλησιαの中の人々に、εκκλησιαの外に置かれた人の声を傾聴しなさいと言っていた。
 暫定的には結果論となる。
 信仰を選ぶのは神であって私ではない。εκκλησιαは私を通る働きであって私ではない。ただ私の死がεκκλησιαに祝福されているなら私は神を信じていたことになるのだろうと思う。愛があるのは許しがあったからみたいに。