私は神も仏も信じない

 それはただある、とか、ユンクのように言うわけでもない。
 こんなこと言うなよ、今日の一言みたいだが:
 私はあなたが信じる神を信じない。
 というのがま私の人生の此処までところ。結論先に言うとダメだなぁと思う自分がね。ただ、孤独なんだしこうした問題は内面に正直にある以外どうしようもない。
 神は人々の心の中にいて、世界の不正に対して、君の参戦を期待している、というふうに考えることは可能かとも思う。ま、よくわからない。
 ただ、人に心というものはある。どうやらこの虚無の宇宙のなかに「私」はいるようだ。「私」が存在し「心」があるということはこの虚無の宇宙のなかに「命」があるということだし、命のある宇宙とは虚無とは思えない云々って考えると神がいそうだし、いてもええんでないと思うこともある。というか、汎神論ではなく、この今のすべてが神だとか言えないこともないと思う。
 ただ、この問題はそんなめんどくせーことではないなと思っている。
 私はあなたの信じる神を信じない、というとき、密かに私は私の神を持つというか信仰を持つというとき、私は「あなた」と切り離されている。キリスト教神学的にいうと、そこにεκκλησιαがない。ところが神の働きとはまさに人と人の間にεκκλησιαを作るところにある。εκκλησιαなくして神や信仰を問うことはナンセンスなのではないか、かなり、たぶん、蓮如上人宣わく、物を言え、物を言え。
 この問題について、εκκλησιαの内部にいたティリヒは、神はあなたをεκκλησιαの外に置いたのかもしれないという奇妙な示唆をしている。正確にいえば、εκκλησιαの中の人々に、εκκλησιαの外に置かれた人の声を傾聴しなさいと言っていた。
 暫定的には結果論となる。
 信仰を選ぶのは神であって私ではない。εκκλησιαは私を通る働きであって私ではない。ただ私の死がεκκλησιαに祝福されているなら私は神を信じていたことになるのだろうと思う。愛があるのは許しがあったからみたいに。