言われてみれば、へぇ

 ネタ元は日垣隆の「新明快 定義集」

宮台真司
 1959年3月3日生まれ。
浅羽通明
 1959年3月4日生まれ。
大月隆寛
 1959年3月5日生まれ。

 共通性はありそうだね。ちなみに以下は日垣のネタではないが。

坪内祐三
 1958年生まれ。
日垣隆
 1958年生まれ。
福田和也
 1960年10月9日生まれ。

 私が1957年生まれ。
 浅田彰がたしか同年だったか。
 1957年生まれあたりから、ぐいっと、非リアルなカーブが始まるというか、1960年代のリアルの光景の記憶の問題かもしれない。
 福田和也はオリンピックの光景の記憶はないみたいだし。

今日の新聞各紙社説は…

 憲法記念日なので書き置き社説。毎度くだらないのだが、意外と産経のがよかった。もっと無意味なラッパを吹くのかと思ったら現状がよく認識されている。
 ウォルフレンが言うように、改憲というプロセスが重要なのだ、その過程で日本人が自覚するのだ、というのはあるかもしれない。九条とか前文は触れず、とりあえず、無意味な参院を削るとか、ま、試しに無理のない範囲で改憲してみるってことで、ひとつ、っていう感じだが、そういうことがうまくいかないのが日本の現状だろう。
 私は基本的に改憲否定論者だ。改憲する理由もさしてうかばないし、この憲法を歴史文書として後代の日本についでもらいたいと思っている。これは一種の暗号でもあるのだし、後代が解くのを期待したい。
 と、いいつつ、いわゆる改憲否定というのは、戦後の米核傘下の平和論と同じで、触らぬ神に祟りなし、九条というお札をキョンシーに貼っておこういうものだろう。大衆とはそんなものというのをどう否定的に見るか肯定的に見るか。
 ちなみに。私の憲法論みたいのは以下。
 ⇒極東ブログ: 試訳憲法前文、ただし直訳風
 ⇒極東ブログ: 尖閣諸島、領土と施政権

 ⇒極東ブログ: 領有権=財産権、施政権=信託
 ⇒極東ブログ: The high ideals controlling human relationship

 ⇒極東ブログ: 民主党の国連待機部隊案は正しい

 そして、国連の問題というところに極東ブログでの関心は動いていった。国連が糞であり、そして中国と国連のシステムがスーダンの無辜の民衆を殺しているに等しいとも思えた。もちろん、そのシステムは米国も同じだろう。それでも、日本の市民派?はイラクなどイデオロギー的な政治マター一色となり、グローバルな構造とダルフール危機が投げかける人間の生存の根幹の問題を失ってしまった。

●日経社説 成熟した民主国家にふさわしい憲法に

 どってことない。

●産経社説 憲法記念日 「不磨の大典」に風穴を まず9条と改正条件の緩和

 パスかと思って読むうちに、これがそれほど悪くない。

●毎日社説 憲法記念日 改憲への原則3点を確認する

 そんな三原則知らん。そもそも憲法というのは国権制御なので、そんなこともわからん馬鹿たれが多くて困る。と、ま、そうなのだが、そのあたり、多少変化もあるか。しかし、骨格は変わらない。

●読売社説 [航空管制ミス]「プロの誇りは失われたのか」

 パス。昨日書いた以上なし。

●朝日社説 世直し気分と歴史の重さ 改憲論議を考える

 わけのわからん文章なのだが。

 しかし、9条の平和主義は、過去の過ちは繰り返さないという日本の不戦の証しでもある。これがあるからこそ、和解への取り組みが不十分でもなんとかやってこられた。もし9条を変えるのなら、その前にきちんとしておくべきことがあるのではないか。

 アメリカの傘から中国様の傘? まさかね。

新緑の下を散歩しつつ…

 我ながら歳を取ってしまったなと思いつつ、緑の木陰を歩いて、木漏れ陽を見たり、水の流れや鳥の声を聞いていると、意識のなかで、うまく言えないのだが、「私」というのがいないような不思議な感じになった。無我の境地とかそういう難しいものでもなく。
 私はそう遠くなく死んでしまうだろう。
 最期はろくでもないんじゃないかなと思う。しかし、人の運命とはそうだ。よく人を罵るに最期に苦しめなどと言う人がいるが、罵りにあたいしない人がそうなる運命というものもあり、その運命というもの恐ろしさというか畏怖にむしろ、そうした罵りを控えるようになる…歳を取れば。
 すでに朽ちた木々もある。百年生きただろうか、その巨木はと思う。あるいは、二百年。銀杏なら数百年は生きるだろうが、そうした木々の風景も私の死後はどうだろうか。しばしは保つだろうか。
 言葉では日本の行く末はどうなるだろうと案じたようなことをしばしば書くが、考えてみれば、日本人として生まれてきた自分が祖国とその自然と文化を愛する理由もしらないのだから、そんな自分がこの時代に生まれたのだから、次の世代にもなにかあるのだろうし、それを信頼することも祖国への愛のようなものだろう。とすれば、祖国愛など、言挙げして言うは愚かなことだろう。と書くのが愚かだな。
 山椒の垣を過ぎたおり、ふと気になって葉を見つめた。枸橘と山椒には揚羽蝶の幼虫がつくものだ。いなかった。見回してみると、害虫というのも実に減った。害虫のない自然は自然なのだろうか。そこは少し悲しく思った。そういえば、揚羽蝶が飛ぶのを東京に戻ってみることがない。泣きそうな気持ちになる。

いや、ブレーキ操作はそうではないと思うが

 ⇒ドクター苫米地ブログ:JR脱線、カーブの中で急ブレーキで飛んだらしい

カーブに進入してから急ブレーキをかけたらしいから、これは、車輪がロックして、車体が慣性、遠心力で飛んだということだろう。自動車でも山道とかで、よく初心者が、高速で進入して、カーブの真ん中で慌ててブレーキを踏んで、ブレーキングドリフトして大破という事故があるけど、あれと原理は同じだ。要するに運転士が初心者だったということだろうが、そうなると、なんで、100キロ以上の高速でカーブに進入したかが焦点だろう。

 タメの批判とかではないので誤解なきよう。
 単純に、操作がそうではないのではないかと疑問に思うだが。
 そのあたりのブレーキのメカニズムがよくわからない。

はてなQ はてな 性善説/性悪説。人間の生まれついての性質は強いて言うなら、

 via id:yasai:20050502:1115036243
 考えてみると面白い問題で、とりあえず、私の回答は、善。孟子説である。ま、理由はるる書けないこともないのだが、どうでもいいでしょ。
 自分的に気になるのは、自己を善と規定するときの行動、ということ。
 ある行為をするとき、自己が「善」と意識されているか、「悪」と意識されているか。
 大人なら誰でもわかることだが、「善」の自己意識による行為は社会にけっこう悪を為す。
 ヴェーバー的に言えば結果倫理だったか。
 しかし、ヴェーバーはさておき、結果を想定しつつ人は行為すべきか?
 ある意味ではそうだ。
 で、「善」というのは、人倫の関係性の階層がある。友人間、親子、村落的共同体、社会、国家…国家の先に普遍が存在するかわからない。あるという建前は理解できる。行為においてそれが意識できるかというと、普遍善性なんか意識されたらたまったものではない。
 で、他者間を認め合う者どおしの倫理における「善」と国家の「善」はまったく異なり、後者は、前者からは「悪」すら見える。
 その時人はどうなるか?
 一つわかるのは、テロなんかでもそうだが、自己を絶対善に規定して人間は、高次な善の可能性を、関係性のなかで抹殺にかかる…という大きな悪の構造が現れる。
 この先に、さらに、では、悪を為す、とはなにかという造悪論があるが、ちょっと考えるのに疲れるので、しない。

たけくまさーん…

 ⇒たけくまメモ: 俺の家族を紹介します
 家族…ですか。
 いや、ほんと面白い。家族なんだろうなぁ。
 そういう人生も佳き、って感じですね。
 そういえば、先日、歌舞伎町をぶらついたら、れれ?みたいなところにハレルヤ食堂があった。何軒か増えたのか?