新緑の下を散歩しつつ…

 我ながら歳を取ってしまったなと思いつつ、緑の木陰を歩いて、木漏れ陽を見たり、水の流れや鳥の声を聞いていると、意識のなかで、うまく言えないのだが、「私」というのがいないような不思議な感じになった。無我の境地とかそういう難しいものでもなく。
 私はそう遠くなく死んでしまうだろう。
 最期はろくでもないんじゃないかなと思う。しかし、人の運命とはそうだ。よく人を罵るに最期に苦しめなどと言う人がいるが、罵りにあたいしない人がそうなる運命というものもあり、その運命というもの恐ろしさというか畏怖にむしろ、そうした罵りを控えるようになる…歳を取れば。
 すでに朽ちた木々もある。百年生きただろうか、その巨木はと思う。あるいは、二百年。銀杏なら数百年は生きるだろうが、そうした木々の風景も私の死後はどうだろうか。しばしは保つだろうか。
 言葉では日本の行く末はどうなるだろうと案じたようなことをしばしば書くが、考えてみれば、日本人として生まれてきた自分が祖国とその自然と文化を愛する理由もしらないのだから、そんな自分がこの時代に生まれたのだから、次の世代にもなにかあるのだろうし、それを信頼することも祖国への愛のようなものだろう。とすれば、祖国愛など、言挙げして言うは愚かなことだろう。と書くのが愚かだな。
 山椒の垣を過ぎたおり、ふと気になって葉を見つめた。枸橘と山椒には揚羽蝶の幼虫がつくものだ。いなかった。見回してみると、害虫というのも実に減った。害虫のない自然は自然なのだろうか。そこは少し悲しく思った。そういえば、揚羽蝶が飛ぶのを東京に戻ってみることがない。泣きそうな気持ちになる。