週刊新潮の襲撃実行犯の話

 週刊新潮の襲撃実行犯の話があり、読んだ。次回がさらに面白そうではある。
 ⇒asahi.com(朝日新聞社):本社阪神支局事件 実行犯を名乗る男、週刊新潮に手記 - 関西ニュース一般

 この男性は05〜06年、朝日新聞へ「襲撃事件の実行犯」と名乗って手紙を送ってきており、朝日新聞は当時、男性に会って取材した。今月、週刊新潮編集部から、男性の「証言」が事実と合致しているかどうか問い合わせを受けたが、面会内容や取材結果から「本事件の客観的事実と明らかに異なる点が多数ある」と回答している。
 また男性は朝日新聞記者の取材を受けた時の状況についても触れ、「(記者が)喧嘩(けんか)腰で怒鳴る」などと書いているが、そうした事実はない。

 「朝日新聞は当時、男性に会って取材した」は新潮の記事をさしているのか、朝日新聞として新潮記事に合わせて「そのとおりだ」という証言をしたのか。率直にいうと朝日新聞はこういうことに関して、伝聞と本人証言の差というのも理解していないのだろうと思う。日本語ではこの差が表現しづらく、しかも意識もされにくい。
 新潮記事を読むと朝日はこの話を実際にはネグっていたようでもある。であれば、それはなぜなのかと思うが、後段、「そうした事実はない」というのが興味深い。
 ここもそうだが、朝日の証言として「そうした事実はない」であって、犯人と名乗る男の証言ではそうではない。であれば、事実はなんであるかとそこから次に考えなくてはならない。が、朝日にその発想はなさそうだ。
 ここからむしろ興味深い。というのは事件の問題性は、この実行犯が本当かということもだが、その背景が語られるという意味を朝日は拒絶しているように思えることだ。むしろ、そこが大問題の可能性があるのに。
 この実行犯がフカシだとすれば次回名指しされるかもしれない人物というのは、それなりに政治的な意図をもった虚構ということになり、いずれにせよその虚構をメディアでばらまく意図が問われる。なぜそこに朝日は着目せず、前段階で拘泥してしまったのか。少し踏み込んで言うと、朝日はたぶん、意志決定ができないのだろうと思う。この事件の意味性を、上位の次元で理解するジャーナリストの独立した感性を失いつつあるのだろう。私は朝日を非難しているのではない。たぶん、普通のジャーナリストならこんなことは皮膚感覚でわかるはずなのに組織がたぶん抑えている。そしてその抑える組織は意識の結果ではなく、単に組織それ自体の自動的な結果なのだろう。朝日新聞としてのジャーナリズムという、コアの感覚を各ジャーナリストがその個々の責務の関係で消失しつつあるのではないか。
 新潮記事がウソならウソだときちんと対応しなければ、そのウソから次の政治的な意図がばらまかれることになる。
 
追記
 2月23日に朝日新聞から検証記事が出た。朝日新聞としての社会的な責務は意識されていたと評価できる。
 関連⇒asahi.com(朝日新聞社):週刊新潮「本社襲撃犯」手記 「真実性なし」本社判断 - 社会
 
追記
 ⇒はてなブックマーク - 週刊新潮の襲撃実行犯の話 - finalventの日記

kanose マスコミ, 新聞 掲載一週目だからかもしれないが、今読むと何ともいえない記事だこと…。でも、新潮の盟友である週刊文春でもツッコまれていたのに 2009/08/23

 後出しじゃんけんの上から目線だこと……。でも私も「今読むと」と読み返すが、強弁するわけではないが、私自身はその揶揄に充てられるものはないと思うが。「新潮の盟友である週刊文春でもツッコまれていたのに」も読んだが、ごく軽い記事でしかなかった。
 ちなみに私の後出しじゃんけんはこう。