絵に描いたような雨の天気図。気ぜわしさとのったりとしたという感じの疲労とで時が過ぎていく感じがする。気分的には鬱ということでもないが。なにかもうちょっと深い本が読みたい、映画が見たいという思いがあるが、心がうまく静まらない。考えてみれば、かつてもそれはそうなのだろう。
 自分も今年は52歳にもなるので当然なのだが、街行く人が自分よりも若いことが多い。会合などだと、この人たちなかで私が最年長なんだろうな、それはあの風景もこの風景も知れないのだろうなとふと思う。奇妙な感じがする。私は全共闘世代よりも若く、そして戦争知らない子どもたちすら知らない世代で、父たちの世代の戦争は伝わらないという嘆きをよく聞いたものだった。全共闘世代というか団塊世代は戦中世代からの反動で歴史から途切れたが、そのあとの世代の私は生活感覚のなかから自然に戦争や歴史の臭いをたぐろうとしてきた。世代の問題ではないのかもしれないのだが。
 もうちょっというと、たぶん私より10歳は年上だろうから団塊世代なのだろうが、世の中でのマナーが非常に悪いと思うことがある。若い人もマナーは悪いし、私なども失態することはあるが、60歳近い人間のだらしなさには文化というものの消滅感は感じるが、さて昔はよかったというわけでもあるまい。というあたりで思いが逡巡する。
 連想だが、また文科省が漢字をいじくっているのだが、「切る」と「斬る」の使い分けが可能になったそうだ。それはないだろという感じがする。「聞く」と「聴く」を使い分けるのもの変だと思う。そういう使い分けの意識は唐心というものではないか。まあ、よくわからないな。
 言葉というのは不思議なもので、どうやら一生かけてもこの不思議さは尽きることがなさそうだ。老人が言葉について語りたがるのもそのせいではあるだろうと言ってみて、いやそうでもないかもしれないなと少しぞっとする。