12日、水曜日
筋トレを開始。水泳で基礎的な筋力が戻りつつあるので。
残念ながら確実に体力は落ちてきて若いときの体には戻らない。というか、それがもう目的ではなくて、老化と折り合いをどうつけていくかということかなと思う。
筋トレも、今まではマシンを使うのが嫌だったのだが、考えを変えて使ってみる。
夏が来ると体がバテるので、どこまでできるかわからないが。
353 : Lesson
My eyes, my tongue, my hands, my feet today
Have but one purpose; to be given Christ
To use to bless the world with miracles.
【意訳】
奇跡によってこの世を祝福するために
私の目も言葉も、手も足も、
キリストがお使いになりますように。
acimレッスンの終わりに向けて
昨年の3月11日に開始したAcimのレッスンだが、やってみるととてもむずかしい。これは終わることなく、途中で放棄するんじゃないかとなんどか思った。あるいは、別に1年でやり遂げる必要もないと思いつつ、なんというか、この日記にしがみついて、へとへとになって辿り着いた感じがある。まだ、ではあるけど。
先日、私のキリスト教理解は間違いであり、私は「アフォ」だと言われた。愛を込めて言われたのかもしれないが、それはそのまま受け止めることはできた。つまり、私は阿呆であり、私のキリスト教理解は間違っていると。それはそれでかまわない。
もちろん、理性的に言えば、それは私の発言を単純に誤解しているにすぎないのだが(私はカルバニズムのみをキリスト教だとしていないことは過去発言から明白なので)、それでも、私の考えが、キリスト教なるものから逸脱しているのは、それはそれで確かな感覚なのだろう。
私は、たぶん、キリスト教より、Acimのイエスに向かった。
私はクリスチャンではない。私は、キリスト教という意味で、神を信じることはないだろうと思う。私は、「異端者」になったのだな、と自分を悲しく思う。
ただ、イエスと、その教えを、Acimによって、より身近に感じるようにはなった。
なんというのか、Acimを通して決定的に学んだことの一つは、罰することは間違いだということだ。裁くことは間違いだと言ってもよいかもしれない。
罰することに潜む間違いということもうっすらと気がついた。人は「罪」を誇ることができてしまう。それこそが間違いなのだ。神をもって罰する、裁くことが間違いなのだと。
Acimのイエスはヘレンとの対応のなかで、ヘレンが間違っていくとき、それを罰せず、根気強く、訂正するとした。あなたが間違うなら、私は訂正しよう、と。
心の中の深い傷
心の奥底に深い傷があり、人を愛することができない。自分は欠陥人間なのだと思う。というか、心底悲しい。
もちろん、自分なりに人を愛するとはこういうことかと、賭けのように確信してみたり、そして、結果的に僕の人生はもうほとんど過ぎてしまったので、その中には、神の十分の恵みのもとで、愛は与えられたのだと思う。その意味では、愛することがなんとかできたのかもしれないし、そこにはなにか信仰のような思いはある。感謝もある。
Acimを通しても、ある人への嫌悪はどうしても抜けない。それをもって愛することができないというならまだできない。赦すことができないかと問われれば、赦すことはできるようになった。Acimのイエスが言うように、それはなかったのだというならそれも理解できる。
だがそれでも、沸き起こる嫌悪感は抜けない。そしてその奥になお怒りが隠れているのではないかとも思う。
昨晩は寝つかれずそれを見つめて、泣きたくなるほど悲しかった、が、眠れはした。どこかにそっと救済のようなものがあるのかもしれない。
現状では、嫌悪しつつ、なお愛するという、その両立くらいでしかない。心情に正直であれば、やはり嫌悪感は抜けない。
なぜこんなに苦しいのだろうと思う。過ぎ去った苦しみがなぜ、今でも苦しみになるのだろうと思う。もちろん、その答えはわかっている。ACIMでも道元もそれをきちんと理路を説いていて理解はできる。
それでも、理解が救済には至っていないのも自分の事実なのは悲しいほどだ。
頭ではわかる。救済はいつかやってくるものではなく、今ここにある。でも、今ここに絶叫したくなる苦しみも悲しみもある。
それでも過ぎ去ったもの
遠い日の失恋の痛みのようなものは、まったくなくなったというわけではないが、なんというのか、その過去から別の未来としての今などはありえないということだけは、心底理解できるようになった。
『多崎つくる』で、つくるがクロ(エリ)と会話するシーンのなかで、過去に彼女の愛を受け入れることができたと思いつつ、それがいずれ破綻することも理解しているが、あの感覚はわかる。
若い日に愛し合っていたように思えても、そこから何十年か生きて、己の正体のようなもの(「罪」と言ってもよいのだろう)を見つめると、その愛のようなものが開花することはなかっただろうと納得する。
この人生しか生きられなかった。この愛しかなかった。それが自分の全てだったというのは、なんというのか、そのままに神の言葉のように受け入れることはできる。
と、同時に。私を捨てていった人たち(私が主観的にそう思うだけではあるんだけどと自覚はしているが)が、幸福に生きていることが確信できるし、そこに祝福を送ることはできる。
若い日の人との出会いは長く痛む傷を残すこともあるが、生きて行けば、自分を見出していけば、その傷は傷ではなく、今のありかたの恩寵のひとつに思えてくる。そんなことがあるものだなということ、それを知るのに、人間55年くらいは生きてみる価値はあったなと思う。
こういうのは偶然というのだろうか
Facimのサイトを見たら、今日、情報が更新されていて、Facimのテキストの翻訳が6月25日に出ることを知った。注文した。
こういうのは偶然というのだろうか。まあ、それほど深く意味を考えることでもないが、なんだか、まるでちょうど自分がワークブックを終えるのを見計らったみたいな感じがした。
ついでに、AmazonでWapnick先生の本を3冊注文した。