今日の大手紙社説

 日銀人事が話題。しかし、こんなのよく延々と社説でやるものだなと思う。人事より政策が問題だが、そこはなんとなく「独立」とかで却下される。それは方法論の却下であって金融政策ありかたまで日銀が勝手にするというわけでもないと思うが。
 そういう点でむしろ私は民主党はダメだわ感を強くしたな。

日経春秋 春秋(4/8)

10年間で59兆円をつぎ込んで道路を整備するという国土交通省の計画も、そんな執着心の所産だろうか。どの道路が本当に必要かは二の次。特定財源なる巨大な財布があるからカネの心配はない。

 道路問題については私はもっと整備すべきだの意見なので、同じく失笑されてしまう。

日経社説 白川総裁誕生で空席は解消するが…

 副総裁候補だった伊藤隆敏東大教授の国会同意が得られず、代わりに副総裁となった西村清彦前日銀審議委員(元東大教授)は就任記者会見で「伊藤氏の代わりですか」と問われ、ポツリと「ノーコメントです」と答えた。日本を代表する経済学者たちに、こんな気持ちを抱かせる日銀トップ人事とは一体何なのか。

 なかなか面白い話。

毎日社説 社説:日銀人事 副総裁含めこれで決着を - 毎日jp(毎日新聞)

 これもか。民主党の態度がよいとは思わないけど、それはそういう党なんだし今回の件では財務省出身はやだというのに「これで決着を」は紛糾するばかり。とはいえ、自分でも矛盾するけど民主党も折れていいし、明確な別副総裁候補をたててもいい。

読売社説 憲法世論調査 改正論を冷やす政治の混迷 : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 読売新聞の世論調査で、憲法を「改正する方がよい」と思う改正派が42・5%へ減少した。「改正しない方がよい」という非改正派は、43・1%になった。

 庶民感覚としてそんなものだろう。生活面での利害の文脈が見えてこないのだから。

読売社説 日銀人事 総裁空席は解消されるが : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 内容的にはどうということはないのだけど、おかしかった。この問題は当初から存在していない。制度的な問題が露見したにすぎない。民主党の経済見識も相当に問題だが、対立野党間に齟齬があるのはごく普通こと。

ムネオ曰く

 私は観戦スポーツに関心ないけど。
 ⇒宗男日記から - 鈴木宗男ランド ブログ by宗援会

 柔道の北京五輪代表が一部決まった。注目の谷亮子選手は決勝で敗れたが、実績などが評価され、代表になっている。谷選手の頑張りや努力は私も敬意を表するが、代表選考会で勝った者が選ばれないということは気の毒で同情に値する。

 へぇ。

逃げること

 ⇒404 Blog Not Found:逃げ上手は生き上手
 ダンコーガイさんに言われなくてもそんなものかと思うけど。
 けどというのは、なにかちょっとひっかる感じがして。なんでしょね。

これは難易度順でもある。最も難しいのは、現実を変えること。次に難しいのは、自分を変えること。そして最も簡単なのは、逃げること。

 このあたりかな。逃げるのは簡単という場合、なんとなく簡単な対処としての逃げる、というのがあるのだけど、自分の実感としては、逃げるというのは倒壊する建物や、勝てない猛獣に向き合うように自然な対応なので、現実的には、そういう自然な対応が心理的・制度的に阻害されているという状況をどう認識するか対処するかという問題だと思う。
 別の言い方をすると、危機の認識が間違っていると、自然に逃げられない。
 この危機認識をゆがませるのは、孤独の問題じゃないか。
 心情的な孤独な人は孤立を恐れているから逃げられない。
 もっとも逃げてばかりいる人はたぶん自分への信頼(confidence)というものがない(だから別の意味で孤独)。
 まあ、もうちょっとありそうだけど、なんか説教めくでこれにて。

あまり正確ではないけど

 私はバブル前、バブル中、バブル後をぼんやりと生きて来た。振り返ってみると、必ずしもそうしたものに影響がなかったわけではない。云々。
 バブル前の世界では、なんというのか、世間の意識的には、お嬢様ブームあるいは女子大生ブームみたいのがあったのだが、あれが実質自分の青春の終わりころだった。そこが印象深いのは、自分の周りには純正お嬢様というのがいたし、女子大生たちは私より頭が良かった。70年代の最後と80年代の始まりの微妙な隙間のように思う。そのころ、すでに村上春樹がいた。ユーミンの歌もまだ大きなブレークはなく、流行歌はそれほど美しくなかった。メディアがなんというか社会主義とでもいうのか、でっち上げられた感は少なかった。もちろん、でっち上げられたものではあったが。町は普通の町の風景というか、ドラえもんサザエさんの町だった。ああいう町が本当にあった。
 そのお嬢様ブームの前は平坦だったかというと、一種の政治の終わりの時代があった。社会党がぶいぶいしていたし左翼もブイブイしていたが、地味に右派というか普通に欧米風の伝統的な知識人が台頭するようになってきた。諸君とかがそれなりに継続しそうな時代。新書などもそういう知識人を背景に面白かった。今のようなネタの新書ではない時代だ。
 思うと75年くらいにある意味で戦後の終焉が始まり、そして、この空隙を終えて、ある喧噪の時代が始まり、実質プラザ合意でその本質は終わったのだろうが、それが顕在化するまでに長かった。あのとき、戦後の日本は終わっていたのだろう。
 と振り返ると、自分中心すぎるかもしれないのだが、私は、57年といういわゆる戦後の終わりの空隙に生まれ、そして本当に日本が終わる微妙な最盛期に一番知的な形成を得たと思う。それは案外ラッキーだったのかもしれないと、ぽかんと不思議な感じがする。うまく言えないのだが、こうして見ると、私が社会に対してあるすてばちなニヒリズムに浸されない理由はそんなところにあるのかもしれない(自分的にはそう思っているけどくらいだけど)。まあ、世代論ということではないんだけど。
 バブルの時代、自分はあまり関係ないといえばそうだし、それに乗っかるには若すぎたのだが、微妙にスピンアウトした。自分の人生を狂わせた社会的な要因があるとすればバブル前の微妙なバブル発射の読み違えかもしれないし、その後の微妙なバブルの潤沢さのおこぼれかもしれない。書いていて曖昧になってしまうのだが、よくわからないが、とにかく流されて生きていた部分は大きい。今の時代なら、たぶん有無も言わさず沈没していただろうな。
 そして、私は消えた。消えたというか別の自分を生きて来た。というか、今の自分はそっち側なので、消えたのは以前の自分かもしれない。こうして振り返ると、消えることもそれなりの流されるという意味でのサバイバルだった。
 これからどうなるのだろう。ふと25歳のままあるいは32歳くらいのままの自分の意識に50歳の自分が取り残されている感もあるし、率直にいって、普通に50歳のオッサンのリアルもある。普通に考えればそのリアルの側にサバイバルはあるだろうし、こうしたタイプの人間にありがちなのだが、50の坂は越えられないかもしれない。
 端的に言えば、運命というものはある。避けがたいという意味で。意志はそれをさらに避けがたいものにしていく。ただ、もう少し与えられた部分の資質というか経験というのはなんだろうと思う。
 私の日記を不快に思う人たちがいる。ごめんな。
 ただ、なんで書いているのというと、そういうなんか微妙な残余が意味を形成していくプロセスとも関係あるのかもしれない。
 山本七平は当然ながら若いころ戦地に送られた。軍に属して、変なところだと思いつづけそして死地を見た。それでも生かされたのだから生きていようとして生きていただろうし、世間なんかある意味でどうひどくにもなりうるものには見えていただろう。死にそびれ、病で倒れそこね、事業で失敗しそこねという、あの達観とした風貌とは異なった壮絶な人生だったが、あの達観とした感じは、彼の信仰の形と言えばそうかもしれない。彼は直裁な形では信仰を語らなかった。若い私はそのことにもどかしさを覚えた。実質二度本人に問い詰めてしまったこともある。しかし、今、なんとなくわかる。

人生経験とか

 どうも説教臭いこと書いているように思われるかもしれないし、実際そうかもしれない。
 うまく言えないのだけど、私は人生の失敗者でもある(別の見方もあるだろうけど)というか少なくとも、自分は凡庸だけど特例かもしれないなと思うし、まさか20歳まで生きられないと思っていた気違い少年が漱石先生の齢を越えるとは。
 恋愛というのはいつになってもできるとか、オバサンたちやオジサンたちは言うけど、そんなことはない。若い時にしかできないし、きっちりその終わりというのはある。
 ただ、そういう言い方は経験則というか人生経験というものだろうか。
 というのは、「そんなことはないよ」は常に成り立つ。慣性質量の定義とは違うものだし。
 偉そうなことを言えば、自分の人生経験という狭いウインドウから垣間見たもの本質直感というものかもしれない。
 なんでだろと思ったのだが、案外古典の弊害かな。若い頃それなりに古典とか読んだわけで、そういうのは、一種の輪廻転生感みたいなものをもたらす。
 ただ、現実若いどぎまぎした恋愛やあるいは30代のあがきのような恋愛のなかにいる本人ですら、ええ、わたしってこの関係の本人ですか?みたいな違和感はあるだろうし、恋愛の奇っ怪なところは、その違和感なくすっぽり恋愛している人間に対する「それはないでしょう」感がある。たぶん、恋愛とかは、どっかにそういう、あれ私ってこの恋愛の主人公ですか笑っちゃいますよね、あはは、晩ご飯生姜炒め、みたいな部分の健全さというのが必須。
 ネットになんか書いていると、いろいろ罵倒もいただくし、それはけっこうほぉ、アタリじゃんというのがあるのだけど、罵倒のなかに、「ああ、この人はスッカリ」系だなと思えるのがあり、痛いよお前とか言いづらい完璧感を感じることがある。まあ、そんなものなんだけど。
 なにがああいう人生主人公だ正義だスッカリ系の人がいるのかよくわからない。そういうとなんだか揶揄しているみたいだが、単純にわかんないな。というのと、「お前こそスッカリ」だろいうのはあるのかもしれない。そうかなといろいろ逡巡するのだけどね。
 ダンコーガイさんなんかはスッカリに見えるだけである程度歳食って演じてる部分は大きいように思うし、そういう演じ方は彼の生き方というか人生経験の素直な反照でもあるのだろうな。
 ま、それは一般的にそういうもんかも。
 むしろスッカリ系の人はマイナーかも。
 いや、なんか俺には俺なりにスッカリ変な人っていうのはあるかな。いやはや。