人生経験とか

 どうも説教臭いこと書いているように思われるかもしれないし、実際そうかもしれない。
 うまく言えないのだけど、私は人生の失敗者でもある(別の見方もあるだろうけど)というか少なくとも、自分は凡庸だけど特例かもしれないなと思うし、まさか20歳まで生きられないと思っていた気違い少年が漱石先生の齢を越えるとは。
 恋愛というのはいつになってもできるとか、オバサンたちやオジサンたちは言うけど、そんなことはない。若い時にしかできないし、きっちりその終わりというのはある。
 ただ、そういう言い方は経験則というか人生経験というものだろうか。
 というのは、「そんなことはないよ」は常に成り立つ。慣性質量の定義とは違うものだし。
 偉そうなことを言えば、自分の人生経験という狭いウインドウから垣間見たもの本質直感というものかもしれない。
 なんでだろと思ったのだが、案外古典の弊害かな。若い頃それなりに古典とか読んだわけで、そういうのは、一種の輪廻転生感みたいなものをもたらす。
 ただ、現実若いどぎまぎした恋愛やあるいは30代のあがきのような恋愛のなかにいる本人ですら、ええ、わたしってこの関係の本人ですか?みたいな違和感はあるだろうし、恋愛の奇っ怪なところは、その違和感なくすっぽり恋愛している人間に対する「それはないでしょう」感がある。たぶん、恋愛とかは、どっかにそういう、あれ私ってこの恋愛の主人公ですか笑っちゃいますよね、あはは、晩ご飯生姜炒め、みたいな部分の健全さというのが必須。
 ネットになんか書いていると、いろいろ罵倒もいただくし、それはけっこうほぉ、アタリじゃんというのがあるのだけど、罵倒のなかに、「ああ、この人はスッカリ」系だなと思えるのがあり、痛いよお前とか言いづらい完璧感を感じることがある。まあ、そんなものなんだけど。
 なにがああいう人生主人公だ正義だスッカリ系の人がいるのかよくわからない。そういうとなんだか揶揄しているみたいだが、単純にわかんないな。というのと、「お前こそスッカリ」だろいうのはあるのかもしれない。そうかなといろいろ逡巡するのだけどね。
 ダンコーガイさんなんかはスッカリに見えるだけである程度歳食って演じてる部分は大きいように思うし、そういう演じ方は彼の生き方というか人生経験の素直な反照でもあるのだろうな。
 ま、それは一般的にそういうもんかも。
 むしろスッカリ系の人はマイナーかも。
 いや、なんか俺には俺なりにスッカリ変な人っていうのはあるかな。いやはや。