産経社説 【主張】総裁空席 もう日銀出身しかいない - MSN産経ニュース
こうしてみると、総裁職を担えるのは日銀出身しかおらず、総裁代行の白川方明副総裁の昇格が最も現実的選択肢だろう。
3月12日⇒極東ブログ: 日銀総裁人事問題雑感
差し替えとなり「白川方明・京大大学院教授」となるならば、これはこれで手順通りすんなりと丸く収まる。そうなれば、今朝の大手紙社説は、「経済政策形成の研究 既得観念と経済学の相克」(参照)が改訂されおりに追記されるべきエピソードとなるかもしれない。
読売社説 アフリカ外交 戦略的にODAを活用せよ : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
この社説にガボン以外の国名が出てこないのが象徴的。
私はキャンディーズに関心なかったんですよね。
ピンクレディーは嫌いではなかったけど。
ってこれね⇒キャンディーズ:ファンが同窓会 思い30年、だみ声に乗せ - 毎日jp(毎日新聞)
先ほどラジオを聞いてふと映像を見たら、オヤジ漬け、だった。
世の中、こんなオヤジがいっぱいいるのかと思った。
キャンディーズやっていた娘さんたちは、私より少し年上だ。仕込みの人々が団塊で、それなりに私の下の世代もマーケットとして見ていたので、私の年代を中心にファンはいるのだろうと思う。
まあ、ちょっと思ったのは。
彼女たちはようするに、私の年代では、恋愛の対象であり、当時は結婚の幻想対象でもあった。あの時代に乗って結婚した男達はいまその30年後の妻を持っている。普通にオバサンだろう。
そのオバサンへの愛情と、キャンディーズ懐かしいは別の感情ということなのかもしれないが、私はそういうがよくわからない。
思い返すと、私は浅野ゆう子とか、アイドル的に好きだったような気がするが、その時代の彼女への思いみたいのに向き合いたいとは思わない。
というか、そういう思いは終わった。
25歳の女というか
ヒッキーがたしか25歳。
25歳の女性というのは私が自分の幻想域の恋愛の対象のほぼ上限で、恥ずかしい話だが、それより上の独身女性というのは苦手というか、自分より遙か年上に思える。性的な精神性でもとてもかなわないと思いがする。
この心性はちょっと不思議で、出会ったときの年齢という含みと、その後の幻想的な補正もある。たとえば、同い年くらいの女性、おばさんだろう当然、と話をしていると、自分の幻想的な恋愛的年齢、25歳上限ぐらいにチューンしてきて、年上感が消える。(ただ恋愛対象には見えない、他の男の女だなこいつと思うくらい。)
そういうチューンがなければ、30過ぎくらいの娘さんなども年上に見える。より厳密にいうとさすがに自分も老の域にはいったので、40歳くらいまでの女性は若くは見えるけど。
たぶん、性的な恐怖感、つまり、私のその感覚の根にあるのは、25歳を越えた女性の、性的な成熟感への恐怖なのだろう。10人近い男たちとの性的な経験性のある女性と向き合って、そのワンノブゼムとして自分が存在しえないような怖さがある。
現実をしかし冷ややかにみると、そうした女性は実際には少ない。たいていの女性は美人でもなく普通なので、性的な経験は、恋愛市場のしょっぱさの含みがある。そのあたりは、男女ともに30代以降、奇妙な恋愛の不達成感として残るだろうと思う。
この話は後段があるにはあるのだが、いずれ書く機会があるかどうかわからない。ほのめかしたいわけではないが、まだうまく書けない。
副島隆彦の人生道場(副島隆彦)、ざっと読んだよ
副島隆彦の人生道場: 副島 隆彦 |
研究社の辞書問題のあたりで、あれ?と思い、アポロの話で愕然として、その後もついてけないけど、これはどうかと思って読んだら、やっぱりついてけない。
相性の問題でしょうか。
どうしてそう思い込みができるのかついてけねー的な人がいる。
多くなったのか、昔もそうだったのかよくわからないが。
副島隆彦が橋爪大三郎と共著だったころはふんふんと読めたものだが。
そういえば。
小林よしのり、も、ついてけねーだけど、彼は私からみるとけっこう数学的に考える人と、それなりに異論への感性を持っているので、それなりに構えるならついてけねーということはない。ただ、関心ないのでほとんど読まなくなった。
ブレアの奥さんのほうは
あまり話題にならんかったような。
⇒米競売会社、ブルーニさんのヌード写真を公開 国際ニュース : AFPBB News
ラフマニノフ、ええなあ
次々と襲いかかる運命の嵐のただ中で、彼はなぜ、永遠に残る名曲を書くことができたのか?
そこには、秘められた愛の物語があった……。
おとなげないけど
言論の自由とは私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。ただそれだけのことである。
だが、ほとんどの人は「言論の自由」を前段だけに限定してとらえており、後段の「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件を言い落としている。
私は「言論の自由」が持続可能な社会的規範であり続けるためには、後段の条件が不可避であろうと思う。
単純に全然違うと思うけど。
単純に⇒言論の自由 - Wikipedia
言論の自由(げんろんのじゆう)は自由権の一種で、検閲を受けることなく自身の思想・良心を表明する自由を指す。表現の自由の根幹をなすと考えられ、今日では国際人権法で保護され世界人権宣言第19条、国際人権規約B規約にも規定されているものの、多くの国で保障されるには至っていない。
ただこの先の日本版ウィキペディアの説明はちょっと変。
と英語のほうも見ると、こちらものっけから議論的。
⇒Freedom of speech - Wikipedia, the free encyclopedia
Freedom of speech is the concept of being able to speak freely without censorship. Freedom of speech is one of the crowning achievments in civilization however many people being opprotunists abuse freedom of speech to launch endless waves of verbal hand grenades although this freedom was meant to be able to speak ones mind without government opposition many now simply interperet this freedom to simply mean the right to be legitimately intolerant.
ま、基本は、censorship、ということ。検閲。
「言論の自由」が問われるのは、何かがcensorshipとして働くかということが問題になるとき。ちょっと蛇足すると、組織的なネガコメとかが実質censorshipとして機能しているとしたらそのあたりは問題かも。
で、と。
ロベール・フォーリソンという「自称歴史家」が「アウシュヴィッツにガス室は存在しない。なぜなら、それを証明するナチスの公文書が存在しないからである。ユダヤ人はチフスで死んだのである」という奇怪な論を立てた。
その書物の序文をノーム・チョムスキーが書いた。チョムスキーは「私はこの著者の論に賛成ではないし、論証も不備であると思う。しかし、どのように人を不快にする主張であろうと、それを公表する権利を私は支持する」と書いた。
私はそれを読みながら、チョムスキーの言うことは正しいけれど、いささか無理があると思った。そこには原理に対する敬意はあったけれど、当の本を読んで、その理非を判断する人々の知性に対する敬意は感じられなかったからである。
これは先のウィキペディアの記載にもあるけど。
その他、ヨーロッパにはナチスのユダヤ人政策の定説に異を唱えると、禁固刑が科せられる国も多い(ドイツ・フランス・オーストリア・ハンガリー等)。
この対象ということ。敬意とかの問題ではなくもっとべたな問題。
話がだいぶ変というご自覚はあるらしく、内田先生も途中。
いや、原理的にはなるのだろうが、社会制度として、もちこたえることができないのではないか。
私はそういうふうに考えている。
というわけで、私家版言論の自由、と種明かしになる。
さらに。
私が言いたいのは、「言論の自由」を機能させるためには、「言論の自由」の原理主義に対する反原理的な批評性が不可欠だろうということである。
そうではなくて、"Freedom of speech is one of the crowning achievments in civilization"ということ。
まあ、内田先生の餌に釣られるクマではあるんだけど。
おまけ
とはいえなんとなく内田先生っぽくなるのは。
⇒404 Blog Not Found:言論の自由と健全な青少年を同時に守るたった一つの冴えたやり方
これはちょっとお下品。