おとなげないけど

 ⇒言論の自由について (内田樹の研究室)

 言論の自由とは私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。ただそれだけのことである。
 だが、ほとんどの人は「言論の自由」を前段だけに限定してとらえており、後段の「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件を言い落としている。
 私は「言論の自由」が持続可能な社会的規範であり続けるためには、後段の条件が不可避であろうと思う。

 単純に全然違うと思うけど。
 単純に⇒言論の自由 - Wikipedia

言論の自由(げんろんのじゆう)は自由権の一種で、検閲を受けることなく自身の思想・良心を表明する自由を指す。表現の自由の根幹をなすと考えられ、今日では国際人権法で保護され世界人権宣言第19条、国際人権規約B規約にも規定されているものの、多くの国で保障されるには至っていない。

 ただこの先の日本版ウィキペディアの説明はちょっと変。
 と英語のほうも見ると、こちらものっけから議論的。
 ⇒Freedom of speech - Wikipedia, the free encyclopedia

Freedom of speech is the concept of being able to speak freely without censorship. Freedom of speech is one of the crowning achievments in civilization however many people being opprotunists abuse freedom of speech to launch endless waves of verbal hand grenades although this freedom was meant to be able to speak ones mind without government opposition many now simply interperet this freedom to simply mean the right to be legitimately intolerant.

 ま、基本は、censorship、ということ。検閲。
 「言論の自由」が問われるのは、何かがcensorshipとして働くかということが問題になるとき。ちょっと蛇足すると、組織的なネガコメとかが実質censorshipとして機能しているとしたらそのあたりは問題かも。
 で、と。

 ロベール・フォーリソンという「自称歴史家」が「アウシュヴィッツガス室は存在しない。なぜなら、それを証明するナチスの公文書が存在しないからである。ユダヤ人はチフスで死んだのである」という奇怪な論を立てた。
 その書物の序文をノーム・チョムスキーが書いた。チョムスキーは「私はこの著者の論に賛成ではないし、論証も不備であると思う。しかし、どのように人を不快にする主張であろうと、それを公表する権利を私は支持する」と書いた。
 私はそれを読みながら、チョムスキーの言うことは正しいけれど、いささか無理があると思った。そこには原理に対する敬意はあったけれど、当の本を読んで、その理非を判断する人々の知性に対する敬意は感じられなかったからである。

 これは先のウィキペディアの記載にもあるけど。

その他、ヨーロッパにはナチスユダヤ人政策の定説に異を唱えると、禁固刑が科せられる国も多い(ドイツ・フランス・オーストリアハンガリー等)。

 この対象ということ。敬意とかの問題ではなくもっとべたな問題。
 話がだいぶ変というご自覚はあるらしく、内田先生も途中。

いや、原理的にはなるのだろうが、社会制度として、もちこたえることができないのではないか。
私はそういうふうに考えている。

 というわけで、私家版言論の自由、と種明かしになる。
 さらに。

私が言いたいのは、「言論の自由」を機能させるためには、「言論の自由」の原理主義に対する反原理的な批評性が不可欠だろうということである。

 そうではなくて、"Freedom of speech is one of the crowning achievments in civilization"ということ。
 まあ、内田先生の餌に釣られるクマではあるんだけど。
 
おまけ
 とはいえなんとなく内田先生っぽくなるのは。
 ⇒404 Blog Not Found:言論の自由と健全な青少年を同時に守るたった一つの冴えたやり方
 これはちょっとお下品。