産経社説 首相訪米 同盟の危うさを直視せよ
なんかかったるくなったので軽くだけど、有志連合という軍事同盟と日米安保は違うよ。全然違うとは言わないが。
毎日社説 プラス成長復帰 今こそ個人消費を重視せよ
うわ、毎日も朝日と同じこと突然言い出している。
どうでもいいけど、聞屋さんの高給料というのは世間の空気を知るのによからぬ制度かな。個人消費というのは自分たちの生活を包括する。では、どこで失費が増えるの?と考えてみたらどうだろうか。
毎日社説 新法案参院に まず党首討論から始めては
表題を見て脱力した、なんだ、これ。まあ、いいか。
で。
しかし、法案自体の論議は深まったとはいえない。「自衛隊の海外派遣は国連決議が前提」とする民主党は、インド洋での今回の活動のように米国などの有志連合による場合は派遣の対象外だとの考えだ。これには政府・与党内に異論が多く、今後も修正合意は難しそうだというのが大方の見方だ。
民主党の考えというより、憲法を普通に考えたらそうだろ。有志連合というのは交戦しうる。しかし、日本は、暗黙に国家の自明の権利とされる防衛権以外ない、もたないと決めた。であれば、それが軍事同盟に参加できないのは、1+1=2くらい当たり前のことだ。
それでは世界に貢献ができないなら、貢献を別途考えるべきで、また、世界が軍事力を必要としているなら、日本国家のグリップを外した公的な権限のもとで軍事力をお貸ししましょうということ。
読売社説 新テロ法案 無責任な民主党の先延ばし戦術
放言だがといちおうことわり書きは入れるが、読売新聞、頭いかれているよ。
朝日社説 円高・株安―最長景気に木枯らし吹く
特にどってこないのだが、朝日ってこの論調ではなかったように思う。検証して批判したい気もしないではないが気力がない。
個人消費を刺激して景気の好循環を実現することにより、米国からのマイナスの影響を遮断する。そんな積極策をとれるかどうかが、これから景気の寿命を左右するのではなかろうか。
結語のそれはそうだ。が。
7〜9月期の成長率は健闘したものの、そのなかで気がかりなのが激減した住宅着工件数。耐震偽装問題で改正された建築基準法により、手続きの処理が滞っているのが原因だ。
個人消費もさえないが、秋以降にはさらに慎重ムードが出ている。内閣府による10月の消費動向調査では、ガソリンや食料品などの値上がりが消費者心理を冷やす兆しがうかがえる。
住宅着工件数の問題は想定されたことだし、少なからぬマスメディアの風評被害の側面もある。それとこの問題、「手続きの処理」には違いないが業界の内部の視線からすれば、もっとどろどろとしたものがある。朝日は現場の取材をしてないのだろうか。であれば、覗いてみるといいだろうと思う(業界側での行政不信の構造がある)。聞屋は足で稼げよ。
関本忠弘NEC元会長、死去
お歳ではあるから。
⇒直言居士、骨太の財界人 評伝・関本忠弘NEC元会長 - MSN産経ニュース
長生きはするんではないかも的な思いも去来。
⇒NEC元会長の息子逮捕 IT関連人材派遣会社から5600万円横領 - MSN産経ニュース
そりゃそうだよな的
⇒The Canadian Press: Antivirals reduce risk of death in older patients hospitalized with flu: study
TORONTO - Antiviral drugs can significantly cut the risk of death for older adults hospitalized with severe cases of influenza, even if the therapy is started outside the optimal treatment window, a new study from Toronto researchers suggests.
あえて解説はしないよというか、まあ、わかれよ。
最近ネットからそれでも引いているのだけど
微妙に微妙なんで。
それと数年前とネットの空気が全然違うので、というか、無意味な誤解と敵意に溢れていて辟易としているので。
でも、ちょっとログっておこう。
私的にはこれの関連⇒この件はあまり言及したくないのだけど - finalventの日記
で、今回。
増田的⇒拝啓 hashigotan
そのぶくま⇒はてなブックマーク - 拝啓 hashigotan
そして。
その後の経緯にやや⇒heartbreaking. 先日のgooブログの強制停止処分はやはり通報者が居たようです。
そのぶくま⇒はてなブックマーク - heartbreaking. 先日のgooブログの強制停止処分はやはり通報者が居たようです。
今回の件で微妙にekkenさん。問題が不必要に錯綜化している感もある。
⇒「自分の不幸な境遇」を他人への攻撃の正当化に使うな!
そのぶくま⇒はてなブックマーク - 「自分の不幸な境遇」を他人への攻撃の正当化に使うな!
で脇道にそれるけど、ekkenさん的な何か。ちなみに、これは以前テンプレ化した。
⇒ekkenは必要なのだろうか
そのぶくま⇒はてなブックマーク - ekkenは必要なのだろうか
さて。
問題が非常に難しい。
錯綜とはいえない一つの興味深い傾向。
⇒はてなにも陶片追放システムが必要なのでは
そのぶくま⇒はてなブックマーク - はてなにも陶片追放システムが必要なのでは
そういえばこの問題で微妙な位置にあるululunさん。
⇒はてなムラに陶片追放は存在するか - 煩悩是道場
そのぶくま⇒はてなブックマーク - はてなムラに陶片追放は存在するか - 煩悩是道場
さて。
増田的問題とhashigotan惹起問題とぶくま問題とはてな村とかいろいろ錯綜しつつ、なにか奇妙な問題が浮かび上がっている感じがする。そのあたり、どうですか、佐々木さん的、に、ネットのメインストリームでは問題にならない。ちょっとひどい言い方をすると、hashigotan、ekken、ululunって何?という世界があるにはある。
この世界の課題に私とかどう関わっていいかわからない。
ただ、この世界がある微妙さでtwitterにも関わっている。というのは、一例ではtwitterですでにアイドル化しているeigokokunさんや、先の陶片追放ぶくまでのfromdusktildawnさんのコメントでも暗示されているけど、粗雑に言えば、twitterのほうがいいじゃん、的な。そしてちょっと踏み出すと私もその流れに流されている。
ひとつには⇒Twitter / Yuu Arimura: しかしTwitterで本気のdisり合いってなかなかお...
Twitterの場合、コミュ性が先にコントローラブルだからかもしれない。
あと、ぶくまのこういう世界、なぜこんなにぶくまが集中?
すごい量⇒はてなブックマーク - 勉強ができない人・成績の悪い人 - Slow Jamz
いなご力というようなことではない。ある意味で、ekkenさんやululunさん的なホットな部分がCSS小僧よりマス的に膨れだしたということかもしれない。
自分的には、自分のスタンスシフトのせいもだけど、こういう熱い世界から引いているのでそれほどこのシーンにはいない。ので、このエントリもためらう。というか、どうも奇妙な誤解の矢が飛んでくるので、とほほになるなというのはある。
ちょっと外れるけど、自分との関連だと、こんなハメになる。
一例だと⇒はてなブックマーク - 哲学とかはちょっと釣られる - finalventの日記
2007年11月10日 takanofumio 茶々入れるだけなら自分だって書ける。こういう態度は不真面目で失礼。
2007年11月10日 akkie2000 こういうのは思っても書けないものだが。書いちゃうんだなふらふらと。
2007年11月10日 rs6000moe 老害
どうでもいいのだけど、どうもいいなら元エントリ自体どうでもいいので、これは削除した。
もう一例。
承前承前の⇒今日の話題のぶくま - finalventの日記
そのぶくま⇒はてなブックマーク - 今日の話題のぶくま - finalventの日記
2007年10月17日 tokoroten999 finalventっちのブクマに対する敵愾心は異常。
2007年10月17日 kanimaster blog id:finalventの読みが浅いのに驚き。元記事は普通の出来事ではあるが、普通の文章ではないよ。
こういうのはネガコメとは言わないし、わかってないなとも思わない。ただ、え?という感じはあった。ほいでも、私は、tokoroten999さんやkanimasterさんについては、イデオロギー的な背景を持っている人でもなさそうなで、ちょっと奇妙にひっかかるかないう感じ。ぶくまは気にしないという一般性でスルーがよいのだが。がというのは、釣られているみたいだが、今回の一連の話のぶくまに必ずといってほどkanimasterさんは登場する。
kanimasterさんを批判したいわけでもないのだが、システム的な制約で直接的には該当ぶくまからのリンケージは見えない。間接的にその人のぶくまページのHomeアイコンでわかるにはわかるが、その関心をその人志向に強いるかだろうか。
まあ、それはそれでいいのだが、と、一般論に戻って、ある種の人的なハブによせる関わりが先行して意見がクラスター化している感じがするのと、ぶくまがそのエントリー的になっている。(先のぶくまHomeアイコンが関心の条件化するように。)
いわば、ぶくまとそのぶくま者に関心が集約される関与のありかたとしてのブログ的な言説がある。
ただ、率直に言って、ネガコメ問題という点では、終わった、というか、今回の一連のぶくまでもそうだけど、別の流れにシフトしてきた。
微量に言えば、私はネガコメはシステム的に解決できるのではないか、であれば解決したらと思っていた。実際のところtwitterはそれに近い。代替なら代替でいいか、と。だが、陶片追放システムには発想も及ばない。ぞっとするという感じだろうか。
類似だが⇒少なくともその手順はないよな、gooブログ - finalventの日記
もちろん、今回の件で、ブログサービスの提供社としてgooに手落ちがあったわけではない。だが、私はブロガーとして「少なくともその手順はないよな」とつぶやかざるをえない。
先日のTwitter発言のまとめみたいな
思考は関数で、「私」はその返却値ではないか。
別の言い方をすれば思考というメカニズムが「私」を機械的に生み出している。思考が止まれば、「私」はいない。
ただし、そういう比喩で語るとき、それでも「私」のコアのようなものはありそうだし、現在知覚の所持者として「私」が存在しそうに思える。ここがたぶんこの難問の急所だろう。
世界を知覚している主体としての「私」はありそうに思える。だが、それは常に疎外、客体化、遅延、物語化を介している。デリダ的な差延がありそうだ。というより、差延は、そうした現在知覚の「私」を、デカルトのゴギトのように原初的なもの(アルケー)として措定している。
でも、その措定とは、原初的なものを求めるための、詐術にすぎないだろう。
実質的な意味での「私」とは、「私語り」という記憶の権限として、語られるうるものとして現れる。
記憶とは「私語り」である。そして語られる出来事は、「私」によって「それがあった(過去)」と保証される。あるいは、身体に年輪のように参照される。
だが、ここで奇妙な逆転が可能になる。
「語り」であるなら、いかようにも語られるのではないか?
私の記憶はなぜ私にリアルなのか? それは、今知覚しているからで、今現在の知覚の「私」を偽装的に過去に流用しているにすぎない(昨日の指の痛みは痛くないのに今痛いとして理解する)。
夢もまた語りだ。
今、私は夢を見ている。現実のように明晰に夢を見ている……と、語る、目覚めてから。
しかし、目覚めた私と明晰な夢を見ている私の違いは、語りという点では、どこにもない。同じ立場だ。そしていつか、最後の夢のなかで人は目覚めなくなる。
単純な話、覚醒している私が夢の中の経験を私にアソシエートしているのはその権限の有無でしかない。
ところで、ハイデガーは実存、つまり、「私」を世界内存在と捉える。「私」というものを普遍的な生体の器官、自我として捉えるなら、自我はおそらく生体の生存のためのツールとして形成されたものだろう。するとその生存そのものが外界のインタラクションとして成立している(世界内存在)ということは、自我はその世界の課題を受けるために生成されたものだ。世界と私は相互作用・現象なのだとしてみよう。確かに、私は世界と不可分に存在しているように思われる。
だが、その私は明晰夢を見ている私ではないのか?
夢を見る、そして目覚める、そして夢を見る。私はそのサイクルのなかで、常に私たりえる。世界内存在としてあるにもかかわらず、そこにはあたかも私の意識を軸として、世界を多様にすり替える。私は、今も私、明晰夢のなかでも私。世界はまったく違うのに、私はそこに同じものとして違った世界の記憶を保持している。
世界とは、たんなる可交項なのではないか。そこを書き換えるとき私が変わる。蛙の私、鳥の私。風の私。大地の私。
夢の中の「私」が「この私」であるという明証性は、転生、つまり、「別の時代の生の私が私である」をも保証しうる。
過去生と明晰夢とどこが違うのだろう? 同じだ、夢を見るなら。
過去生の私が私であるのは、明晰夢の中の私が私であるのとまったく同じくらい自然だ。ああ、腹が減ったな、とつぶやいてもそうだ。
近代が「死」を発明するまで、人類は転生を続けていた、とも言える。
近代が「死」を発明したというのはちょっと言い過ぎただろうか。だが、「死」はまったく自明ではない、ということが自明なのだ。
たぶん、現代科学、あるいは、近代、あるいは、魔術からの解放、というのは、根拠のないルールだ。転生を禁じ、死をもって終えることにしようというルール。(たぶん近代的な国家を形成するためのルール。)
この近代の空間は死が最終的な確実性であるという憶見から成立している。そして人は、公的には、死後、復活しない。
ハイデガーは、だから、人を死の先駆として位置づけた。でも、残念だったな、マルチン。大間違いだよ。
死と覚醒は夢と夢のつなぎ目においてなんの違いもない。
死は無であるといい、やがて私は永遠の無になるのだと、確信することを強いられるが、それはルールだ。
あるいは、古代人ですら、実際には、死を無に近いものとして知覚していたかもしれない。
でも、そうした「死=無」のルールは、子によって「私の生」の継承を目論む。子供やコミュニティの子供のなかに受け継ぐ生のなかにその「私」の代替を見る。つまり、国家があれば死ねる。(私が死んでも国家の中に私の生を引き継ぐ子はいるのだから。)
だから、「死=無」のルールは、国家の起源となる。
国家はどこまで大きくしてもいい。あるいは地球があれば死ねるというなら、地球が国家だ。
環境問題が宗教化してしまうのは、国家愛を人類愛みたいなものに置き換えて、地球を人類の場としているからだ。つまりは、国家愛と同じレベルの醜悪さ。
「死=無」がルールに過ぎないなら、ルールをどかせば、死は無ではないかもしれない。
無のようなものであっても無ではないなら、無は「私」という有を、メカニズムとして、生み出すだろうか。そんなことはない。私はただ有のまま世界を転生しているだけなのだ。
それとも、私は生成されたのか?
生成であるというなら、なんのために?
その思いはすべての苦悩につながり、最後の叫びを上げる、「生命とか存在しなければよかったのに!」
ヨブはそう呪いの声を上げた。母の胎に宿らなければよかったのに。サド侯爵の快楽の夢は女性を封じることだった。
だが、私はただ有のまま夢が交換する世界を転々と転生しているだけでも、バルド・ソドルの知恵は女の子宮に入らないことを教えた。
Voiceも今月は面白かったですよ
買っとけとまではないけど。
Voice (ボイス) 2007年 12月号 [雑誌] |