薄曇り、台風4号か
沖縄で暮らしているころは毎日フリピンくらいの海域まで天気図を見ていた。台風オタクっぽくもなっていた。東京に戻ると台風を忘れる。
昨晩のはてなスター騒ぎだが、ざっと見渡すと否定的な意見が多い。ちょっと誤解されるかもだけど、個人的には選択可能なサービスだったらよかったのにというに尽きる。ただ、これを普及させるにはこのくらいゴリっとやるしかないかというのも理解できないわけではないし、そのゴリ感が今の5万人はてな村を広げるのに必要なのかもしれない。
なんだか弁解めくが、私はミクシィはほとんど使わない。ただ、ミクシィにメッセージがあれば見られるようにはしている。他、ボツエントリの墓場にしている。コミュニティ活動をしなければなと思いつつ。なんとなく手薄。で、ようはネットでの交友関係みたいなものだが、たとえば、私はこの日記のコメント欄はかなり好きで、それを手放して別サービスに行くのはちょっとうっとうしい(nowaがいいかなとはちと思った)。もうちょっと私に批判的な人もさらっとコメントできるというか、個別のエントリマーターでコメントしやすくしたほうがいいかと思うのだが、なぜか実際には、罵倒コメントが多くなってしまう。まあ、私の書き方のスタンスの問題も大きいとは思う。
で、これは私の考えというだけなんだけど、ネットでの交友みたいのは、基本的に去る者を拒まぬ、来る人とは一期一会というか、そんな感じ。あるシステム的な友達フラグというのはちょっと苦手だ。というか、私はひそかに幾人かのブロガーに好意を寄せているし、もうちょっというと、その人々が私の正気でもある。で、その好意というのは、普通にこの同じ世界に立って似たような見方をしているなという、連帯感のようなものだ。
feecleのほうでは、上記のようにいいつつ、もっと親密なシステムを受け入れている。ただ、それなりにそこでの自分の表出はそういうものであるべきというか、プロフがクラムチャウダーパイ包み写真になってオモロみたいな感じだ。それはそれでとても自分には大切なんで、というか、そういう部分をはてなのなかに含めることはできないかという感じがした。
話が散漫だが、feecleは自分のなかでは基本的にケータイメディアと考えている。実際には思ったよりパケ代がかかるなこれはまだまだ普及しづらいかとかいろいろ思うので折衷的だ。
あと、自分が若かったらというか少なくとも30代前半ならネットで知り合ったリアルの関係はいろいろ面白かったのかもしれないなと、パソ通時代を思い返して思った。まあ、当時もいろいろ交友は活発だったのだが、今ほどの広がりはなかった。いい意味もあったし広がりがない狭いという感じもあった。総じて優れた人が自然に振り分けられていた。自分が運営に関わっていたBBSは参加者は東大生が目立った。なんか自分もその延長みたいのを自然に受け入れていた。
自分がネットを始めた84年からもう四半世紀近く経つのかと感慨深い。あのころの赤ちゃんたちが今ぶいぶいとネットをしているのだろうというあたりでいつも感慨回路に入りがちだが、その意味合いを自分の側でどう思考するか。単純にいえば、東京オリンピックの光景というかとも思う。
読売社説 改正DV法 配偶者暴力防止に細かな施策を
ちょっと放言。
自分的にはDVっていうのはありえないんですよ。その段階で関係は終わるというか、自分が実体的な暴力の関係に巻き込まれている時点でそういう自分に耐えられない。ただ、このあたりの感性は私の人間的な欠点かもしれない。で、放言なんだが、このDVの関係はたぶん親子関係から来ているだろうから、ようするに現存の家庭の親子関係にけっこう暴力があるのだろう。ついでにいうと子どもの暴力を抑えることができないというのが連鎖的な暴力を招いているのではないかな。ま、これは放言なんで。
朝日社説 参院選公示―「安倍政治」への審判だ
朝日さん舞い上がっている感じがする。基本的に年金問題はそれほど争点になるものでもないように思うがまあ。
だが同時に、この9カ月に安倍政治がやったこと、やらなかったことを、その手法も含めて有権者がしっかりと評価するのが、この選挙の重要な目的であることを忘れてはならない。
こんなことを書くと安倍ボクちゃん評価のように受け止められて、要らぬバッシングを受けそうだけど、「やらなかったことを、その手法も含めて」というのは大切なので、それをまとめて言及すればいいのにと思う、というあたりで、
施行さんとこ⇒世耕日記 日記番外:安倍内閣の実績
ただこうしてみると安倍ボクちゃんのむしろ焦りのようなものも感じる。
もひとつ⇒世耕日記 日記番外:民主党の年金政策の欠陥
65歳以上の人々全員に基礎年金月6.5万円を支給するには約22兆円の財源が必要です。しかし現在の消費税の国の取り分は7兆円しかありません。このすべてを基礎年金の財源に回しても、15兆円が不足することになります。しかもその場合、現在消費税収入を活用している国の事業は廃止するか別の財源を見つけてこなくてはならなくなります。
このわれわれの指摘に対して民主党は、「所得によって基礎年金受給に制限をかけるので必要額は約13兆円だ」と反論しています。しかしこの反論は2つの点で重大な問題点があります。第1に年金以外の収入はあまりないはずの高齢者にどうやって所得による受給制限をかけることができるのでしょうか。第2に百歩譲って所得による受給制限をかけることができるとして、では全員に配布するのに必要な額は22兆円で、民主党のいう額は13兆円ですから、高齢者の約半分は基礎年金を受け取れないという事態になります。本当にこのような案が国民に受容されると考えているのでしょうか。
とはいえ自民党の路線で年金が見えてくるわけでもないように思える。
匿名とかリアルとかちょっとズレるけど
以前にも書いたけど、私の場合、匿名というのはただ昔からネット時代のハンドルみたいなノリということで秘匿の匿みたいに隠す気は基本的にないんですよ。というか、これって仕事じゃないわけで、そして大人っていうのは仕事とか、地域の付き合いで名前というのがあるわけで、恋人だって、山本二郎さんとか呼ばずに、ダーリンとか呼ぶだっちゃ(古すぎ)なわけで、まあ、そんな程度です。ただ、finaventさんとかだと、ちょっと呼びづらい感はあるわけで、おかげで略。
で、実名か匿名かというアングルだけじゃなくて、例えば、釣り仲間とかだと、おーいヤマさん、みたいな呼称ってあるじゃないですか。っていうか、私の場合も、まあ、あるというか。で、そういう呼称の生きているサークルっていうか人付き合いっていうか、趣味の仲間というか、そういうのがネットのなかでわいのわいのってやるっていうのはわからないでもないというか、それはそれで楽しいかなとは思いますね。
という点でちょっと後悔しているのは、ミクシィでフェルデンクライス・コミュをやっているけど、これなんかfinalventさんでやるもんじゃなかったな、と。
あと、逆に、なんかネット上のキャラ(呼称)を決めて、同好の人をめっけてつるむ、というのもありだと思う。たとえば、シュタイナー学習会とか、で、そこでfinalventさんはないでしょとか思う。っていうかいらぬ誤解を招くだけ、どっちにも。とか思う。
まあ、匿名云々というのは、罵倒とかそういうことがからんだ問題とかなんで、突き詰めれば訴訟対象となるかということではないのか? だったら、私とか別に実名で登録しているわけなんで、はてなとかココログに問い合わせるとそこで本人が出てきますよ。というか、その程度のことなんじゃないだろうか。
ま、うまく言えてるわけではないけど。
finalventさんはそれほどこだわりがないと言えばそうだし、なんというか、4年くらいでキャラ育ててきた感もないわけではないし、そのあたりの、はてな属性、みたいのを、はてなを去るとしたら、どうかなとは思いますね。どうかなというのは、よくわかんないや、と。
で、これって、システム依存とまではいわないけど、やはりシステムというか総合的幻影というか、たとえば、finalvent@はてな、finalvent@極東ブログ、finalvent@feecleとかまああるわけで、そこになんか同じだ象さんはいるわけだけど、そしてキャラ使い分けているとか意識してないけど、はてなは雑記、極東ブログは自分がブログだと思う何か、feecleはなんでしょお食事?水泳ま、ごく他愛ないこと。で、それは別と言えば別。
ちょっとこれも誤解されるのかもと緊張してしまうけど、有名になりたいとか思わないわけですよ(完全にそうかとか問われるときっついな、まあ適当でいいじゃん)とか思うのでそれは適当にそれで、で、ようするになんかのネットシステムとキャラというのはそれなりのエフェクトがある。その場合、なんというのか、いわゆるブログシーンというのと、SNS的コミュシーンとが別れてきたのではないかな。
ブログシーンというのは言説ありきなわけで発言者とは諸言説のスレッドみたいなもん、で、コミュシーンというのは友達関係ありきなわけで馴れ合い的な楽しみが村的に続けばいいのではないの。っていうか、人って、そういう村=コミュニティに住むわけですよ。ネットご近所というか。
世代論にしてはいけないのだけどいつからか
自分というのが表象になった人々に向き合う感じがすることがある。
人と向き合っているとき、その人という表象というかコードに向き合っているような。
人は社会やコミュニティのなかで役割なんだから、表象であたりまだろみたいなのはあるけど、なんだろ、たとえば、人によってはすててこいっちょでも白衣を着ていても、その人はその人という人もいる。
なんか生活のリアルさというか。親は親だ、父親だ母親だ、子どもだみたいなリアルさが、どこかの時代の空間からメディア化している感じがするし、どうも、私(この私)あたりがそうしたメディア的な表象的人間の先駆かも。
なんなのだろ?
たとえば、人と話していても、その人が本当のことを語りうるとは思えないような、嘘くささというのとは違って、影の喪失したというか、コアの感情がないというか、そういう人が多い、というか、多くなったというか、そんな人ばっかしかもというか。
ただ、私(この私)というのがしかし、けっこうそういう嘘くさい人なんですよね。こう言うに失笑を買うだけで、お前の言ってることは全部嘘だろみたいに言われそうだが、で、言われて、けろっと、「で?」とか言いそうな私はいる。
たとえば私の死んだ父というのは、いろいろつらいコアみたいのを持っていたし、人の関係ではいろいろ隠していたし、子である私との関係もそれほどうまく言っていなかった。でも、隠れていても彼は彼として小さな人生をリアルに生きていた。それに比べると、私は父とはかなり違う。あまり人に言わない悲しみみたいのはあるが隠しているわけでもないし、そもそも人に通じないよな的に生きている。そのせいか、なにかリアル感はない。