世代論にしてはいけないのだけどいつからか

 自分というのが表象になった人々に向き合う感じがすることがある。
 人と向き合っているとき、その人という表象というかコードに向き合っているような。
 人は社会やコミュニティのなかで役割なんだから、表象であたりまだろみたいなのはあるけど、なんだろ、たとえば、人によってはすててこいっちょでも白衣を着ていても、その人はその人という人もいる。
 なんか生活のリアルさというか。親は親だ、父親だ母親だ、子どもだみたいなリアルさが、どこかの時代の空間からメディア化している感じがするし、どうも、私(この私)あたりがそうしたメディア的な表象的人間の先駆かも。
 なんなのだろ?
 たとえば、人と話していても、その人が本当のことを語りうるとは思えないような、嘘くささというのとは違って、影の喪失したというか、コアの感情がないというか、そういう人が多い、というか、多くなったというか、そんな人ばっかしかもというか。
 ただ、私(この私)というのがしかし、けっこうそういう嘘くさい人なんですよね。こう言うに失笑を買うだけで、お前の言ってることは全部嘘だろみたいに言われそうだが、で、言われて、けろっと、「で?」とか言いそうな私はいる。
 たとえば私の死んだ父というのは、いろいろつらいコアみたいのを持っていたし、人の関係ではいろいろ隠していたし、子である私との関係もそれほどうまく言っていなかった。でも、隠れていても彼は彼として小さな人生をリアルに生きていた。それに比べると、私は父とはかなり違う。あまり人に言わない悲しみみたいのはあるが隠しているわけでもないし、そもそも人に通じないよな的に生きている。そのせいか、なにかリアル感はない。