日経春秋 春秋(7/4) : NIKKEI NET(日経ネット):社説・春秋−日本経済新聞の社説、1面コラムの春秋

▼「菫程(すみれほど)な小さき人に生(うま)れたし」(夏目漱石)。文豪の矜持(きょうじ)とともに、自戒や謙虚さが伝わる。きょう独立記念日を迎えた米国がイラクで苦しむのも「過ぎたるは……」の結果だろうか。唯一の超大国に「菫程な小さき国に……」と自戒する謙虚さがあったら、と思う。日本最大の役所である防衛省の首脳たちにも。

 まあ、私なんぞもこの手の文章を書いて失笑を買っている日々であろうな。
 ところで、「矜持」だが「矜恃」のほうが正しいはず。ただ、すでに新聞表記が定着している(私もなのでそれに従っている)。また辞書なども「きんじ」の読みを慣用読みとして事実上認めている。いろいろあって試験とかには出ないが、いちおう大人ならこのあたりは覚えておいたほうがいい。
 ついでに私の日本語の語感からすると、「文豪の矜持とともに、自戒や謙虚さが伝わる」という文章はおかしい。漱石は自信を文豪とは思ってもいなかっただろう。もっとまっすぐに小説家であることに命をかけていた。

毎日社説 税収見込み 政治へのサービスは禁物だ

 こういう社説を楽しめるようになっている自分がいる。この通りのストーリーでまた日本が沈んだら歴史に残る文章でしょう。って、冗談言ってていいのか。

読売社説 防衛相辞任 冷静さを欠いた「原爆投下」論議

 そもそも、原爆投下という悲劇を招いた大きな要因は、日本の政治指導者らの終戦工作の失敗にある。仮想敵ソ連に和平仲介を頼む愚策をとって、対ソ交渉に時間を空費し、原爆投下とソ連参戦を招いてしまったのである。
 しかし、野党側は、「米国の主張を代弁するものだ」「『しょうがない』ではすまない」などと感情的な言葉で久間氏の発言を非難するばかりで、冷静に事実に即した議論をしようとしなかった。

 おや、自分の別人格でも書いたような。ただ、私はそこまでネットで書かなくなったな。そう思うことと書くことの分離感がある。まあ、そのあたりは自分でも曖昧だ。
 ざっくりいえば政局で議論する内容じゃないよ。

朝日社説 異常な円安―相場も景気も利上げ促す

 まあ穏当な見解ともいえないこともないのだが、私は円は130円をふっきるだろうと思っている。140円くらいで安定しても不思議でないように思う。ただ、私はこの分野にど素人だし痛い目にもあっているのでたいして言えない。
 参考⇒極東ブログ: [書評]藤巻健史の5年後にお金持ちになる「資産運用」入門

朝日社説 防衛相辞任―原爆投下から目をそらすな

 原爆投下を糾弾する動きはここで止まる。政府が黙ってしまったのは、平和条約で、米国などの連合国への請求権を放棄したことが大きいだろう。法的にものを言うすべを失ったということだ。
 だが、それだけではあるまい。日本は米国に無謀な戦争を仕掛けて、敗れた。しかも、敗色が濃厚になっても、戦争をやめなかった。そんな負い目が戦後の日本にあったからではないか。
 久間氏の発言は、こうした心理がうっかり漏れたということだろう。

 そのうっかりをこれだけヒステリックに叩くのはどうかと思うが。

 原爆投下が間違っていたと米国を説得するのは並大抵ではない。米国人の多くは原爆投下によって戦争終結が早まったと信じている。米政府は謝罪したことはないし、現職の大統領が広島や長崎を訪れたこともない。
 だが、戦後50年に米国で開かれた原爆をめぐる展示では大論争があった。米国にも原爆投下に批判的な声がある。
 マクナマラ元米国防長官は、自らが携わった原爆を含む日本への無差別爆撃について「勝ったから許されるのか。私も戦争犯罪を行ったんだ」と語った。
 原爆投下が誤りであり、原爆の被害が悲惨なことを、日本から粘り強く発信し、米国に伝えていく。そのことの大切さを久間発言で改めて痛感する。

 そのとおりだ。朝日もがんばれよ。

霧雨、豪雨の地方もあるとラジオで聞く

 朝方、起きるのが難儀に思えた。疲れ? まあ、そうかなと思いつつ、身体全体に疲労感があり、ああそうだ昨日も泳いだのだったなと思った。そう考えてみると、水泳からのリカバーはよい部類かもしれない。たいして筋肉が付いたとも思えないし、それほど無駄な脂肪が抜けたとも思えないが(というか肥満ではないが)。昨日の水泳も、息の上がり方が多少は少なくなったようにも思った。もうすこし体力が獲得できればいいなと思うが、そう若くもないのだからしかたがないか。昨日も4種をまんべんなく泳ぐ。一つのフォームで50m以上泳ぐと飽きてしまう。クロールは昨日はフラットに戻した。このほうが少ない力で速度が出る。平泳ぎは楽で進むようになったが退屈。なので、バタフライとまぜた変な泳ぎとかもやってみる。できるのがおかしい。背泳ぎで2ビートが定着してきた。推進力がいまいち。で、バタフライだが、手の力はかなり抜けた。ウェーブをどのくらいとるかが依然悩む。ちょっとこれはというくらいウェーブを大きくすると、しかし、胴体が泳ぎに加担し、身体全体の動きになり面白い。このフォームだと胴体と浮力の関係で進むのだろう。泳いだあともバタフライの全身の開放感みたいなものがのこり、なにか別種の生物になったような不思議な感じがする。進化の過程のある種の意識の残滓のようなものが身体のなかに実は多様に残っているのではないか。ところで、こうした水泳の身体変化だが、微妙に性行動的な身体機能にも影響を与えているようでもある。まあ、ネットに書くようなこっちゃないが。と、少し話がずれるが、人の泳ぎを見ていて、どうも変だなと思う。自分も傍から見ればそうかもしれないのでふーんと思うだけにする。時折水泳部みたいな泳ぎも見るが、あまり関心ない。私はスポーツとしての泳ぎより、最小限の力で身体をどう使って泳ぐかに関心がある。まあ、むかしから私とスポーツの関係はそういうふうに身体の内在に向かってしまう。

ちょっとお節介だが

 ⇒国家鮟鱇 - 日本語の起源はラテン語という話

一見トンデモのようだが、日本神話とギリシャ神話に類似点があるなんてこともあるので、可能性としてはあり得ることではないかと思う。

 類似点があるについては、古い本だが、たぶん必読文献。というか既読でしょうが。

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日本神話の源流: 吉田 敦彦

増田の人生ただいま30代半ば恋の途中

 ⇒

久しぶりに恋というものをしている気がする。
30代も半ばになって、またこんなにドキドキするとは思わなかった。

 50歳になってもそうかもよ。
 というあたりで、うへぇと思ったら、人生っていうのはそういう、よごれっちまったスライムみたいな悲しみのようなものがあるってこと。

それは誤読かも

 また増田⇒猫猫先生が「彼女を思ってオナニー」したことがあると告白
 でも、「 もてない男―恋愛論を超えて: 本: 小谷野 敦」とか今読むとけっこうすごいこと書いてあったりするのに気がつくかも。

J-cast v.s. ヒッキー

 ⇒livedoor ニュース - 「CMかぶってるぞ」 宇多田ヒカルが倖田來未に「煽り」?
 私は当然、盲目的にヒッキーの味方です。でも、都合が悪くなったらかならず日和りますと今から宣言。

リサ・ランドールの「 ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く」が出ていた

 けっこう翻訳まで手間取ったみたい。

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ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く: リサ・ランドール,塩原 通緒

出版社/著者からの内容紹介
物理学界がいま最も注目する5次元宇宙理論とは? すぐそこに存在するという第5の次元はなぜ目に見えないのか? そもそもそれは存在するのか?----現代物理学の歩みから最新理論までを数式を一切使わずわかりやすく解説したベストセラー。
 
出版社からのコメント
宇宙は、私たちが実感できる3次元+時間という構成ではないらしい。そこには、もうひとつの見えない次元があるというのだ。もし、もうひとつの次元が存在するのなら、なぜ私たちには見えないのか? それは、私たちの世界にどう影響しているのか? どうしたらその存在を証明できるのか? 現代物理学の歩みから最新理論まで、数式を一切使わずわかりやすく解説しながら、見えない5番めの次元の驚異的な世界に私たちを導いていく。英米の大学でテキストとして使われている話題の書Warped Passagesの邦訳。

 こちらは内容が薄い。

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リサ・ランドール異次元は存在する: リサ・ランドール,若田 光一

まあ女心と限らないけど

 まあ、それほど自信のある意見でもないけど、以下。
 人は、自分ってたいしたことないな、凡庸だなと、心のどこかで思っている。頭もよくないし、見た目もたいしたことない。でも、そう意識で思っていても、そう認めたくない意識もあり、そちらの部分が無意識のなかで圧力のようなものを作りだす。その圧力が強ければ、俺・私ってそこそこ頭も見栄えもいいんじゃない、という、暗示のような、妥協のような欺瞞のようなものを生み出す。
 当然、それらの暗示・妥協・欺瞞というのは、彼・彼女を取り巻く人間関係のなかで、圧力分だけ強迫になっているから、そうした行動を彼・彼女にリフレクトすべく人間関係をしいてくる。これは、非常に、マ・ズ・イ。
 その少し知恵のある人は、こりはまずいんでねーの、という感じで引く。というか、この引きかたが自分の限界への自然な妥協になる。
 で、と。
 ところがこういう、自分ってたいしたことないな、と思いながら、どう見ても、たいしたことのある人間というのもいる。頭がばかみたいに切れたり、美人・美男子だったり。で、こういう人は、たいてい、何かが欠損している。頭が切れる人は全体像が欠けていたりする。美人というのがからっぽだったりする。この何かが欠けている感は、まあ、普通の人にしてみると、ちょっと恐い。その空白に吸い込まれそうになるというか、捕らわれそうになる。
 結論?
 特になし。基本的に自分の凡庸さを自足的に受け入れて、孤独は孤独だし、具体的に小さい圏内で、最小限の人と変わっているのがいいのではないかと思う。
 ブログは?と言われるとよくわかんないし、ふんなこと書いてもなというのもあるかもしれないけど。まあ、幸い、あまり通じないというか、ある種の市場メカニズムみたいなものが理解というものの取引にありそう。

もしかすると正しい自己嫌悪

 雨の日の午後、地下街を歩くのが苦手になった。というか嫌いになった。単純な話、傘をまともに持てない人が多いからだ。まともに持つというのは、人にぶつからないように持つということ。先端を下に向けて持ってねというだけのことだ。当たり前のようだがそうでもない人が多いように思う。それどころか傘を振り回す人が少なくない。まあ、私の社会への感受性は中島義道「醜い日本の私」(参照)のように偏向しているから、多くの人にとってそれほどどうということでもないのかもしれない。
 それでも今日の午後電車に乗ったとき、つり革に傘をぶら下げている、高校生だろうか、学生の一群を見かけたときは、瞬時に呆然とし、そのまま反射的に降りてしまった。あれはなんだ、悪夢か、と思った。
 そういえば、先日ある公的機関に出かける用事があり、その待合いの場所に行くと女子学生が椅子を並べ替えてごろごろと寝ていた。あれにも驚いた。他の人が座る場所がないので、椅子を戻してくださいと注意すると、不快・挑戦的な目つきで無視した。もう一度注意すると私の分の椅子だけ戻した。
 学生のマナーがひどいものだなとはとりあえる言えるだろう。そして、呆然とはするものの、私の世界観としてはもう諦めている。ある種の倫理観・道徳観を求めることができない人もいるのだ。世界とはそういうものだ。それに、若い人には今の社会への閉塞感やコンフォーミティというか画一的な権威のようなものに反抗したい気持ちがあるだろうし、今の団塊世代の初老・老人たちが若い頃の社会的な反抗はあんなものではなかった。
 が、というのは、すこし変な感じが心に残った。私も若いころに社会に対してある種の反抗感は持っていた。私はそういうものを表出しなかったが、それはその人の性格や置かれた状況によるもだろう。変な感じというのは、なんというのか、醜さへと弱さについてのある種の感受性だった。
 あの学生も自身の行為を醜いと本人は思っているのだろう。でも、それがうまく自己嫌悪に結びつかないのは、仲間と群れてしまっているからではないかな。あるいは、群れてしまう自分に自己嫌悪というのを感じないのも。
 ……とか書いてみたものの、先が続かない。まあ、どうでもいいや。