まあ女心と限らないけど

 まあ、それほど自信のある意見でもないけど、以下。
 人は、自分ってたいしたことないな、凡庸だなと、心のどこかで思っている。頭もよくないし、見た目もたいしたことない。でも、そう意識で思っていても、そう認めたくない意識もあり、そちらの部分が無意識のなかで圧力のようなものを作りだす。その圧力が強ければ、俺・私ってそこそこ頭も見栄えもいいんじゃない、という、暗示のような、妥協のような欺瞞のようなものを生み出す。
 当然、それらの暗示・妥協・欺瞞というのは、彼・彼女を取り巻く人間関係のなかで、圧力分だけ強迫になっているから、そうした行動を彼・彼女にリフレクトすべく人間関係をしいてくる。これは、非常に、マ・ズ・イ。
 その少し知恵のある人は、こりはまずいんでねーの、という感じで引く。というか、この引きかたが自分の限界への自然な妥協になる。
 で、と。
 ところがこういう、自分ってたいしたことないな、と思いながら、どう見ても、たいしたことのある人間というのもいる。頭がばかみたいに切れたり、美人・美男子だったり。で、こういう人は、たいてい、何かが欠損している。頭が切れる人は全体像が欠けていたりする。美人というのがからっぽだったりする。この何かが欠けている感は、まあ、普通の人にしてみると、ちょっと恐い。その空白に吸い込まれそうになるというか、捕らわれそうになる。
 結論?
 特になし。基本的に自分の凡庸さを自足的に受け入れて、孤独は孤独だし、具体的に小さい圏内で、最小限の人と変わっているのがいいのではないかと思う。
 ブログは?と言われるとよくわかんないし、ふんなこと書いてもなというのもあるかもしれないけど。まあ、幸い、あまり通じないというか、ある種の市場メカニズムみたいなものが理解というものの取引にありそう。