産経社説 【主張】GDPと景気判断 過度な減速懸念は無用だ

 高い伸びが続いた設備投資に一服感はあるものの、内需のもう一つの柱である消費が好調で、景気の足取りに大きな揺らぎは見えない。
 にもかかわらず、景気減速ばかりを過度に警戒する向きが後を絶たない。この日は大田弘子経済財政担当相が「デフレから脱却したとはいえない状態だ」との見方を示した。

 私は大田弘子経済財政担当相が正しいと思うね。というかがんばれ、大田さん。

 大田氏の発言はこうした指標に注目したものだ。与党内には、量的緩和を打ち切り、ゼロ金利を解除した日銀の政策判断ミスではないかとの声まで出ている。そこには、日銀がわずかでも利上げすれば、安倍政権が進める成長戦略の障害になるという政治的思惑が見え隠れする。

 判断ミスでしょ。

毎日社説 はしか流行 子どもの病気と侮らず

 副作用を恐れる人がいるのも確かだが、ワクチンによる脳炎の発症率ははしかにかかった場合に比べてずっと低い。世界保健機関(WHO)は12年までに、日本を含む西太平洋地区ではしかの「排除」をめざしている。今回の流行を機に、日本もはしか「排除」への機運を高めたい。

 そう書く毎日新聞タミフル馬鹿騒ぎの旗振りやっていたのものだな。

朝日社説 来年度予算―歳出削減を緩めるな

 大筋で違うと思う。
 このところ意図的に世間を回って見るのだが、微妙に物やサービスが高い。つまり、ある生活水準のビジョンをなんとなく受け入れると出費が増大する。ところが、それに対する安価な代替も用意されている。つまり、従来中流と思っていた層のなかに定収入の世帯と、負担の多いまたは不定期収入の世帯で分離が起きているのだろうと思う。そしてこの分離が格差のように見えるが、これは単なる階層分化でしかなく、大筋で、下層を切り捨てていく方向に消費活動が進んでいる。
 でだ、もうちょっとあえて言う。公共サービスが民間サービスを覆っている部分によって格差が覆われている感じがする。単純なところでいえば、無料貸本屋である公共図書館だ。つまり、これは下層の保護でもあるし、その保護の対象は、どうも潜在的な左翼市場っぽい。ただ、これは公明党共産党の市場でもある。このマスが大きくなることで、実はこの勢力が利する傾向にある。どうも、これらの政党指導者は実質的にそれを読んでいるのではないか。
 案外、今の日本の課題は、消費をきちんと回すことで、より確固たる中流(ただし先進国からは下層だけど)のマスを作ることだろう。当然これらは旧政党の枠には入らない。
 ちなみに朝日はこの確固たる中流のなかのちょっと上にある知識人左翼と公共サービスあたりの層で食っている。この層は今後団塊の富裕によって裏打ちされるので、意外と安泰かもしれない。ただ、若者の怨嗟は大きくなるだろう。その構造を朝日はわかっていない。そしてそれゆえにどんどん被害者的な視点になっていくだろうし、実質、つまり議論として追い込まれるだろう。つまり、矛盾だらけの面白い新聞になってしまうだろう。
 
追記
 ちょっと補足。読み直して、ちょっと違うかと思ったので。
 つまり、旧中流が、新中流と下層に分かれるというより、いわゆる昭和的なファミリー世帯の維持をするにはその負担分で公務員でないかぎり、自然的に下層的な消費に押し込まれる。
 これに対して、そういうファミリー志向でない、べたにいうとパラサイト、とか、未来なんかどうでもいいや系の人々の消費、が多分に新中流的に見える、ということかも。

朝日社説 集団的自衛権―何のために必要なのか

 私たちは、集団的自衛権の行使は憲法上認められないし、認める必要もないと考える。自衛隊は日本防衛以外の目的で武力行使をすることはない。その原則から逸脱してはならない。

 その通りなのだが、それで日本の国民の大数への答えになってないのだから、そこから踏み出す思索をしなくてはならないのに、そこで朝日も左翼も終わっている。
 まず、米国の傘の下にある日本という現実がある。そして、これから米国の軍事同盟に組み入れられるという大きな選択がある。それを阻止するならどう対応するのか。この問題は、当面は問題にならないにせよ、中国の軍事力とのバランスにある。朝日も左翼も、この問題に実質目を瞑ってしまっている。たしかに、中国の軍事力は目先の問題ではない。しかし、それが問題ではないのは、今の日米の軍事体制があるからだという現実がある。
 そして大枠で中国の軍事力が問題ではないとしても、局地的には暴発するし、なにより、中国は、その軍事力によって自国民を統制しているという現実もあり、その自国民が台湾に及ぶのは彼らにとってなんの異和感もない。このなんの異和感もないという感覚が日本人の多くにはまるで通じていない。

今日も風やや強しか

 梅雨前の初夏っぽい天気というところだろうか。いくつか予定が自然に流れ、別の流れをすくい上げる。日々のルーチンのなかで、少しずつ大きな流れとして、やはり老いというか人生の課題みたいなものは、言葉でいうよりも大きく見えてくる。50歳までも生きない人々によってそうしたものは先に現れてきたのかよくわからないが、なんとも奇妙な感覚でもある。水泳のこともあるかもしれない。昔なら、これだけ身体を絞るとそれだけのリアクションがあった。今はかなり緩く対話的なプロセスだし、なんといか、身体の奥に固まったものに、静かにねばり強く語りかけるように身体を動かしていかないといけない。意外と年寄りの水泳とかが励みになる。80歳くらいじゃないかという婆さんがすいすいと泳いでいたりする。ああいうふうになりたいものだと、ごく単純に思う。
 昨日は出先で通り雨にやられた。同行者があたふたというわけでもないが、傘を出してくるので、少し待ちましょうよ、この雨はすぐに止みますよといいつつ、座ると奇妙な睡魔に襲われた。そのうち、天気雨となり、世界は美しかった。沖縄の言葉で、天気雨を、てぃーだぶい、という、てぃーだは太陽で、ぶい、またはぶり、は、降りだ。太陽降りということだろう。沖縄では天気雨によくあった。そして、美しい虹をなんども見た。通り雨に引き裂かれた雲の下の海も美しかった。ただ、そうした美に、なにかいらだち、いつかそこから離れた。

ブログ・サバト

 昨日、ああ、木曜日かと思ったので、金曜日、ドキっ感は少ない。今週は、やや早かったような気がする。野暮用とまではいえないが、世の中のオツトメめみたいのと自分の心のバランスが普通に難しかった。変な言い方だが。
 したがないというかこちらの書き方もいけないのだが、エントリの中心課題に対して、貢献的なコメントをいただきたいものだという思いがする。ネガコメ旅団とかはくらだないが、文字校正や誤訳指摘もありがたいにはありがたいが、そのあたりは主張的にではなくドライに進めて、当の課題への言及はないものだろうか、とちと思った。
 ブログ、とくにトラックバックの機能がブログのコミュニケーション機能として活かされていないとかいう議論が以前はあったが、最近ではそれすらも見かけない。トラバなどコミュには使えないでしょというのは前提にあるかもしれないが、それでもブログ間の特定問題意識に対する連携のツールとしてブログが弱ってきているというか別の次元になりつつある。
 別段、アルファーブロガーとかいい出すつもりはないが、ブログが日本社会のシーンになぜ存在しているのだろう、なぜ発言するのだろう、という弱い存在意義への反省点みたいなものが、微妙にいわゆるアルファーブロガー的な連携にはあるように思える。これに対して、いわゆる左翼的な運動ツール化や、2ちゃんねる的な寂しさへのごまかし的な連携、あるいはぶくまのように、100を越えると衆愚っぽいか(サンマーク出版はないだろ的)、がある。現状、20ぶくまくらいの、へぇ、的な問題意識の連携か、よいかも。
 くどいが別にアルファーブロガーでなくてもいいのだけど、そして技術的な問題というより、なにか、問題関心の共有化の仕組みのようなものはできないものだろうかと思った。
 もうちょっというと、コミュ型のツール、それは多分にいわゆるネット弱者?みたいのをすくいあげるけど、結局ミクシ地獄みたいなものと孤独の循環から出られない。人の孤独というのは身体的に近い部分なので癒しみたいなのはできない、できるわけがない。というか、その部分はさっさとtwitterGPS携帯をくっつけた出会い系にしてしまえゴミ箱と思う。
 (業務連絡的、最近、スパムが多いのでちょっとゴミ掃除にネットを見ることがあります。)