野球っていうのはべたに危なくね?

 って思うんだけどね。軟式ならそうでもないけど。
 硬式の球って、当たると死ぬほど痛いし、怪我するっていうか、普通の人にとって石の球とたいて変わらないんすけど。
 ま、少なくとも、高校生とかがやるスポーツじゃなくなくない?
 っていうか、あれ、実際のところ動いているのピッチャーだけじゃん。打つ側はベンチでタバコ吸ってるし(それはない)、受けるほうもほとんどはお空を見ているだけだし(それはセンターだった私の体験から)。

読売社説 ブレア辞任表明 イラクの泥沼に足を取られた

 後継首相には、ゴードン・ブラウン財務相(56)の就任が有力視されている。財務相は、ブレア首相と二人三脚で政権を牽引(けんいん)してきた実力者だ。

 ⇒極東ブログ: ゴードン・ブラウン、その救世主的な情熱

朝日社説 野球特待生―行きすぎをどう防ぐか

 朝日新聞社高野連とつながりが深く、夏の甲子園大会を高野連と主催している。私たちも、特待生の実態と野放図な広がりをきちんとつかみ、早く警鐘を鳴らすべきだったと反省したい。

 ちょっとワロタ。

率直なところ半分わかって半分わからん

 ⇒ブログのリテラシーとアフィリエイトと人気について (終風爺へのお返事) - 好むと好まざるとにかかわらず - 楽天ブログ(Blog)
 わからんのはこっちの問題だと思うので、気にしないこと。
 なので、ちょっと外しかもだけど。
 たとえば、バイトの子が月いくら稼ぐかな。一日2時間20日で、5万円くらいか。
 でだ、そのくらいの労力で、アフィリで同等っていう線が見えてきて、ある程度の数が流れ込むとそこにカネの動く市場ができると思うんだよね。
 で、その市場ができると、もう後にはひかないで、なにかの構造をがらっと変えてしまうはず。
 ってな期待があるんですよ。
 バイトやめてブログ書こうとか、いいなぁと思うのですよ。もっともそれが仕事の代わりというか、仕事の収入源にはならんのだけど。(成る人もいたらそれはいいけど。)
 で、橋本さんとか、その延長でのスーパースター、希望の星っていうか。
 誠実っていうのはいいプロトコルだと思うのですよ。橋本さんほどべたなはできないにしても、その10%で10万円だったら、垂涎でしょ。
 なので、GIGAZINEさんとか、ワタシ的にはアフィリの点ではむしろあまり意味ない。もちろん、シーリングを高くしてくれるのはいいことだと思う。
 百式さんや弾さんとかは、ちょっと、あれは希望の星にならんような気がして。

はてブのアクセス数を増やすために試したい15のネタ

  1. 夏までに尻肉をアップするためのスクワットをアスキーアートで説明する
  2. CSSのありげなリンク集に覚えておきたいこのテクとか派手なタイトルを付ける
  3. JavaScriptバッドノウハウに難しそうなコードを含めて説明する
  4. 非モテについてのそれでいいのだと納得させるようなひねった話をする
  5. 非コミュの話を適当にしてその筋にトラックバックを打ちまくる
  6. 2ちゃんねるまとめサイトにバーカバーカと言いまくる
  7. ウヨとかサヨとかその手の業界用語でその業界の人を釣ってみる
  8. 簡単ロープの縛り方(亀甲編)とか書いてみる
  9. 風俗体験記をどっからパクって青春ポエムにする
  10. これは厳選無料アイコン500とか書いてGIGAZINの過去エントリをパクる
  11. リンゴを使って目の隈を明るくする方法とか適当に考案する
  12. ニコニコ動画とかひろゆきとかいうキーワードを撒いて隠れねらーを釣る
  13. フライパンできる簡単ボンゴレとか書いてべたな話をする
  14. Windows Vistaを使わない7つの理由とかビンボ臭い話を肯定的に書く
  15. 上手な文章の書き方とかいって主語を明確にするとかタワケたリストを作る

ぶくまで知ったのだけど、ブログが終わるときというか

 ⇒はてなブックマーク - kmizusawaの日記 - ご挨拶
 ⇒kmizusawaの日記 - ご挨拶
 kmizusawaさんの日記はぶくまに上がると見る程度だったのだけど、先日の都知事選関連についてはずいぶん率直な意見だなと関心したことがあった。
 で、と。

ここしばらくブログを更新しながら、ときどきいただく批判コメントやトラックバック等を参考にあれこれ考えた結果、「別に私が発言する必要なんてないんじゃないか」という結論に達しました。私はもともと「伝えたい」とか「共有したい」という感覚があまりなくって、書きたいことがメモ的に書ければいいので(長文になるのはただの癖)。

 まあ、それをいうと私も同じかなとも思うし、ただ、なんかそうでもないような気もしているので、ただ惰性で続けていますね。

また、表面的には個別のエントリ内容への批判の形で、事実ではないことや勝手に思い込まれた意図を前提に、まったく関係ないところに政治的スタンスを持ち出されたり人間的な信用を貶められるような道徳的な批判を何度もなされることにうんざりしたというのもあります。

 これはね。ほんとね。どうしようもないんだよな。
 そういえば先日、ブログの潰し屋がいるよみたいな話をちと書いたら、妄想だよみたいなコメントがあったげ。あはは。妄想だったらいいのにね。というか、こんところの嫌がらせコメントというか、おめー文章下手とか、ご愛敬です。

私は自分の感じたことや思ったことや考えたことを書くことが好きですが、気がつくと公開の場では書きたいことの5%も書けなくなっていました。

 ああ、それわかるなぁ。5%っていうあたりが、ずきんと。
 しかし、公開の場で書くこと、そして、ある程度注目されるようになると、なかなか書けなくなるものですよ。これもしかたない。
 少なくとも、思った通りには書けなくなる。
 (もうちょっというと、思い通りに書いたら、自分が怪物になってしまう。そうなってはいけない気がする。)
 そして、いろいろ工夫して書くようになる。ほのめかしメソッドとか言われても、それしかわからん香具師ならしかたなし。ってか、この手の話すればするほど釣られるってことになるわけだよな、うんざり。
 ってな、うんざり感が山ほど。
 でも、捨てて行く。
 前へ前へ進んでいく。
 以前は少しでも支持してくれる人がけっこう励みだったし、いまもそれはそうだけど、でも、やはりそれも基本的には捨てて行く。っていうか、自分が人から捨てられていく過程と同じなんだしね。
 ブログや日記を書くことで、私は、多くの人に捨てられていくという感じを持っている。考えすぎ? もちろん。でも、そういう感覚をある程度平気にしていかないと進めないかなと思う。悲しい? 悲しいよ? でもだったら、ミクシとか出会いとかとかとかすればいいんだしと思う。
 まあ、ある程度進んで荒廃した道で振り返る。
 でも、今のところ、そう悪くない気がする。
 (遠いところに、深く私の声は届いているような感じもする。それは、そう思えるだけ幸せ。)
 うまく言えないけど、自分は爺とか言われるし、自分でもそう嘘ぶくけど、最近、なんか、若いときの胸きゅんてきな切なさみたいな感情とか生き返ってくる面もあるし、それは多少、ブログとか日記とかにも関係しているような気がする。10代、20代のときの、もう返ってこないはずの切ないような心情が、ふっと蘇ることがある。(あと足がすこし軽くなった感じで、ふと歩きながら踊り出したい気持ちもするし、水のなかの感覚から大気中を飛んでいるように風を感じることがある。)
 ネットの世界だと、リアル充とか、リアル対ネットとかに分けられるみたいだけど、実際には、ネットの中で進んでいくことで、リアルというか、この自分というものも変わってくる。
 そして、それは前へ前へ進んでいかないとわからないものかもしれないと思う。
 まあ、よくわかんないのだけどね。わかんないけど、まあ、できるだけ書いて、前へ前へ、と。
 そしてその結果といか自然にネットから消えていたらならそれはそういうものかな、と。

そういえば縁起論だが

 あれから時折考えたのだが、大筋として、十二支縁起は別に間違ってもいないというか、十二支縁起には時間は含まれていないなと考えなおした。
 ⇒十二因縁 - Wikipedia
 ただ。
 ⇒縁起 - Wikipedia

すなわち有・無によって示される空間的にも、生・滅によって示される時間的にも、すべての存在現象は、孤立してでなく相互の関係性によってのみ現象していることが説かれている。
 釈迦がさとったように、いっさいのものは、独一存在でなく、無我である。しかし、すべてが無我でありながら、価値を持ち、存在性を持ちうるのは、すべてが縁起であるからである。この関係においてのみ存在者は存在性を獲得することができる。

 この空間とか時間とかの説明はやっぱり間違っていると思う。特に、「生・滅によって示される時間的にも、すべての存在現象は、孤立してでなく相互の関係性によってのみ現象している」は違うでしょう。

 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
 仏道、もとより豊倹より跳出せるゆへに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。

 生あるときは生のみ、死あるときは死のみ。生・滅によって示される時間的に存在現象はない。
 認識・関係性といった対象性、参与性のないとき、すべては存在しない。すべての存在は今現時点にしかありえない。
 で、生滅は、生滅そのものとしてただ今ある。生滅は生と滅には分解されない、ただ今の現前においてしかありえない。
 「一方を証するときは、一方はくらし」で、「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。」「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。」として、「仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆへに不滅といふ。」となる。
 まあ、「一切衆生・悉有仏性」を「一切は衆生・悉有は仏性」と読めないかぎり、仏教はない、とま、道元は言うし、道元はまったく妥協しなかった。
 これは学問としては正しく仏教としては間違い⇒仏性 - Wikipedia

仏教は概ね大乗仏教(北伝仏教)と部派仏教(南伝仏教)に二分類されるが、大乗仏教の経典である大般涅槃経では、一切衆生(生きとし生けるもの全て)に成仏できる性質が備わっている(一切衆生悉有仏性)と説いている。一切衆生悉有仏性は大般涅槃経を特徴づけるキーワードとも言える。

夜散歩ポ

 
          蛍光灯の薄暗い街の小道を歩きながら
          五月の花の匂いを嗅ぐ
          いくつもの花の匂いが混じり合い
          どの花ともわからない
          だがその花々の匂いからふと
          私は女を連想して立ち止まる
          私が女の匂いから連想するものはいつも
          血なのに
          暗い夜の天界のような女の髪から
          連想するものも血なのに
          その血にまみれて
          小さな肉塊として
          この球体の表面の点として生まれ出た私が
          静かに暗いこの道を歩いている
          血を避けながら
          それでいて女を求めながら
          それでいて女を避けながら