そういえば縁起論だが

 あれから時折考えたのだが、大筋として、十二支縁起は別に間違ってもいないというか、十二支縁起には時間は含まれていないなと考えなおした。
 ⇒十二因縁 - Wikipedia
 ただ。
 ⇒縁起 - Wikipedia

すなわち有・無によって示される空間的にも、生・滅によって示される時間的にも、すべての存在現象は、孤立してでなく相互の関係性によってのみ現象していることが説かれている。
 釈迦がさとったように、いっさいのものは、独一存在でなく、無我である。しかし、すべてが無我でありながら、価値を持ち、存在性を持ちうるのは、すべてが縁起であるからである。この関係においてのみ存在者は存在性を獲得することができる。

 この空間とか時間とかの説明はやっぱり間違っていると思う。特に、「生・滅によって示される時間的にも、すべての存在現象は、孤立してでなく相互の関係性によってのみ現象している」は違うでしょう。

 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
 仏道、もとより豊倹より跳出せるゆへに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。

 生あるときは生のみ、死あるときは死のみ。生・滅によって示される時間的に存在現象はない。
 認識・関係性といった対象性、参与性のないとき、すべては存在しない。すべての存在は今現時点にしかありえない。
 で、生滅は、生滅そのものとしてただ今ある。生滅は生と滅には分解されない、ただ今の現前においてしかありえない。
 「一方を証するときは、一方はくらし」で、「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。」「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。」として、「仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆへに不滅といふ。」となる。
 まあ、「一切衆生・悉有仏性」を「一切は衆生・悉有は仏性」と読めないかぎり、仏教はない、とま、道元は言うし、道元はまったく妥協しなかった。
 これは学問としては正しく仏教としては間違い⇒仏性 - Wikipedia

仏教は概ね大乗仏教(北伝仏教)と部派仏教(南伝仏教)に二分類されるが、大乗仏教の経典である大般涅槃経では、一切衆生(生きとし生けるもの全て)に成仏できる性質が備わっている(一切衆生悉有仏性)と説いている。一切衆生悉有仏性は大般涅槃経を特徴づけるキーワードとも言える。