ぶくまで知ったのだけど、ブログが終わるときというか
⇒はてなブックマーク - kmizusawaの日記 - ご挨拶
⇒kmizusawaの日記 - ご挨拶
kmizusawaさんの日記はぶくまに上がると見る程度だったのだけど、先日の都知事選関連についてはずいぶん率直な意見だなと関心したことがあった。
で、と。
ここしばらくブログを更新しながら、ときどきいただく批判コメントやトラックバック等を参考にあれこれ考えた結果、「別に私が発言する必要なんてないんじゃないか」という結論に達しました。私はもともと「伝えたい」とか「共有したい」という感覚があまりなくって、書きたいことがメモ的に書ければいいので(長文になるのはただの癖)。
まあ、それをいうと私も同じかなとも思うし、ただ、なんかそうでもないような気もしているので、ただ惰性で続けていますね。
また、表面的には個別のエントリ内容への批判の形で、事実ではないことや勝手に思い込まれた意図を前提に、まったく関係ないところに政治的スタンスを持ち出されたり人間的な信用を貶められるような道徳的な批判を何度もなされることにうんざりしたというのもあります。
これはね。ほんとね。どうしようもないんだよな。
そういえば先日、ブログの潰し屋がいるよみたいな話をちと書いたら、妄想だよみたいなコメントがあったげ。あはは。妄想だったらいいのにね。というか、こんところの嫌がらせコメントというか、おめー文章下手とか、ご愛敬です。
私は自分の感じたことや思ったことや考えたことを書くことが好きですが、気がつくと公開の場では書きたいことの5%も書けなくなっていました。
ああ、それわかるなぁ。5%っていうあたりが、ずきんと。
しかし、公開の場で書くこと、そして、ある程度注目されるようになると、なかなか書けなくなるものですよ。これもしかたない。
少なくとも、思った通りには書けなくなる。
(もうちょっというと、思い通りに書いたら、自分が怪物になってしまう。そうなってはいけない気がする。)
そして、いろいろ工夫して書くようになる。ほのめかしメソッドとか言われても、それしかわからん香具師ならしかたなし。ってか、この手の話すればするほど釣られるってことになるわけだよな、うんざり。
ってな、うんざり感が山ほど。
でも、捨てて行く。
前へ前へ進んでいく。
以前は少しでも支持してくれる人がけっこう励みだったし、いまもそれはそうだけど、でも、やはりそれも基本的には捨てて行く。っていうか、自分が人から捨てられていく過程と同じなんだしね。
ブログや日記を書くことで、私は、多くの人に捨てられていくという感じを持っている。考えすぎ? もちろん。でも、そういう感覚をある程度平気にしていかないと進めないかなと思う。悲しい? 悲しいよ? でもだったら、ミクシとか出会いとかとかとかすればいいんだしと思う。
まあ、ある程度進んで荒廃した道で振り返る。
でも、今のところ、そう悪くない気がする。
(遠いところに、深く私の声は届いているような感じもする。それは、そう思えるだけ幸せ。)
うまく言えないけど、自分は爺とか言われるし、自分でもそう嘘ぶくけど、最近、なんか、若いときの胸きゅんてきな切なさみたいな感情とか生き返ってくる面もあるし、それは多少、ブログとか日記とかにも関係しているような気がする。10代、20代のときの、もう返ってこないはずの切ないような心情が、ふっと蘇ることがある。(あと足がすこし軽くなった感じで、ふと歩きながら踊り出したい気持ちもするし、水のなかの感覚から大気中を飛んでいるように風を感じることがある。)
ネットの世界だと、リアル充とか、リアル対ネットとかに分けられるみたいだけど、実際には、ネットの中で進んでいくことで、リアルというか、この自分というものも変わってくる。
そして、それは前へ前へ進んでいかないとわからないものかもしれないと思う。
まあ、よくわかんないのだけどね。わかんないけど、まあ、できるだけ書いて、前へ前へ、と。
そしてその結果といか自然にネットから消えていたらならそれはそういうものかな、と。