晴天

 喉腫れ、小康。昨日のダンスが足に来ていておやっと思った。足がどうもうまく動かなくなったなと思っていたけど、そうだったか、と。
 今日は少し泳ぐかな。
 以前は数日身体を締めるときちんとそれなりに締まったものだが、なかなかそういかなくなっているなと思うのも歳だろう。あまり体型について考えない人(肥満でも痩せでもないので)だが、どうも慢心はよくないみたいだ。
 このところ、あまりネットに書くネタにならない本ばかり読んでいて、それはそれで疲れる。まあ、以前は逆で社会的に関係ない本ばかり読んでいた分がブログとかのネタになっているわけだ。

読売社説 コースター事故 遊園地の売り物はまず安全だ : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 遊園地では、少子化による利用客減少の回復と、東京ディズニーランドなど大型テーマパークとの競争から、スリルを体感できる“絶叫マシン”が広がっている。脱線した「風神雷神2」という愛称のコースターも、最高時速75キロでの急上昇・降下や急旋回が人気だった。
 問題は事故が後を絶たないことだ。
 山梨県富士急ハイランドで2001年、ゴンドラが急停止、大学生2人が大けがをした。三重県ナガシマスパーランドでは03年、ジェットコースターの車輪が外れ、10人が重軽傷を負った。
 遊園地の遊戯施設は、建築基準法上の「工作物」として扱われる。新設時に法的基準を満たせば、その後の安全管理のほとんどは遊園地に委ねられている。

 まあ、メモ。

初夏らしい天気だった

 結局、意外と泳いでしまった。60過ぎだろうか、すげクロールのうまいお婆ちゃんがいてかっこよかった。
 用事を済ませ、冷麺を食い、ああ季節だなとか思うが冷麺は韓国では冬の食い物か、忘れていた買い物をして、スタバで少しお勉強。学生に混じってお勉強というのもな。
 なんだかいろんなことを忘れていく。
 いろんな記憶が多層に積み上がっていくのだけど、コアの部分が新しく伸びているような感じもして、結局、そうして人生、まあ、いちいち人生っていうこともないのだが、取り返しの付かないものは捨てて、死ぬまで明日に向かって歩くしかないのかな。

十年ひと昔というけど

 文章のテイストというかそういうのは二十年ひと昔っていう感じがする。
 今年私が五十歳になる、げげげぇ、ま、それはそれとして、二十代から三十代にかけて読んだ、たとえば吉行淳之介の文章みたいのが、ああ、なんつうか、昔だなぁ、古いなと思う。あの山口瞳もそうだし、野坂とかも。五木寛之なんかは微妙に変な変化しているが。
 で、自分と同世代か少し上の人だと、あの時代の文章を書いている、あるいはあの時代の文章がよいと思って書いている人たちをときたま見る。ちょっとだけ言うと、きっこもその部類だと私は思っている。
 私は、率直にいうと、そういう昔の文章、文章術、文章美学、などなど、どーでもいいやと思う。というか、増田の文章とかのほうが面白いことがある。っていうか、別に若い人に媚びるつもりはないが、若い感性と文章の息づかいのほうがよいっていうか、古い文章は古い人が読んでいればいいのかと思う。
 まあ、うまく言えないが、ブログとか日記とか、結局テキストというか文章にこだわるように見えるけど、もうなんか違うんだと思う。
 先日、梅田晴夫関連のもの少し読んで、万年筆の時代だったなぁ、万年筆や原稿用紙のこだわりで物を書いていた時代があったのだなと思った。そして編集者もそれに沿った鬼でもあった。また、女たちもそういう空気のなかで生きていた。
 時代は変わった。
 エディタとかで文章を書いているのだ。彼らが生きていたら、こんなの文章じゃないよというだろう。いや、だから死者は死者なのだ。

文具屋に行ったら若い女のあれは

 けつ、だろうか?
 棚卸ししているのだが、かがむと背がめくれて少し見えるのだが、どうも、けつまで見えているんじゃないか。
 いや、私は眼がよくないし、そんな近くで見ていたわけじゃないけど、あれは、けつ、かな。いやそんなもの見てんじゃねーよ、中年男、とか思うんだけど、なんか、けつかな。とか思った。

あれはジュンク堂だったか

 たまたま手にした本というか、勘違いして見たようでもあるが、木のセラピーみたいので、よくわかんないのだが、樹木の種類によって癒し効果が違うみたいなアレげな話あって、なんじゃこれは?とか思った。
 とかいいつつ、昔、バトラーという人の書いた魔術の本にも、霊的に疲れたときは、樹木からエネルギーを貰うといいというのがあって、まあ、別にそれを信じていたわけでもないが、よく樹木の下で本を読んだり音楽聞いたりとかしていたものだった。
 で、かくしているうちに、というわけでもなく、まあ、素直にいうと、私は昔からどうも、樹木からなんかを感じる人で、いや偽科学を披露したいわけじゃなくて、ただ、そんな感じがす、希ガス、っていうだけのことだが、まあ、感じるものは感じる。
 最近、新緑がきれいで、公園のベンチでセブンイレブンの弁当とか食って木々の感触をすーっと感じることがあるが、まあ、木の種類によってなんか違うみたいだな。もっとアレげにいうと松がつらそうだ。
 ツツジは花を終えたのか、少し強い力を出している、樹木ほどではないけど。菖蒲なども力を出しているが水と花っぽくて、どうも人間が吸い込む気じゃないな。藤は微妙か。なんだかエハラーみたいなことを言い出しているか、俺。
 何かを感じるという世界は、言葉とか、社会というか、コミュニケーション可能な領域というかそういうなかでは、孤独なものだし、なんというのか、ある種の孤独な意識のチャネルの切り替えみたいなのが必要になる。
 なんというか、脳のあそこのディップスイッチをカチっていう感じなのだが、まあ、なんかね。

通じない感覚、または感覚Aの世界

 はてなとかで若い人の日記とか覗き見しているとコミュニケーションというのがなにかと話題になっているようだが、いわく、コミュニケーション力、コミュニケーション術、わかりやすさの技術、なんたら。
 で、ま、ベースには若い人なりの、通じないなぁ、とか、さみしいとか、孤独、とかいろいろあるのでしょう。
 ただ、なんつうのか、ある種の感覚的世界って、他者に通じないもんなんだよね。で、それがとても自分にとって当たり前なのに、社会にまるきし通じないっていう感覚、ってなんなのでしょうかね。
 ヴィトゲンシュタインが、この手のことを考えていて、その感覚をAと名付ける、というような思考実験をしている。「私」の内部ではその感覚と名辞は連結されているが、Aは他者には言葉で聞けても通じない。他者はその感覚を了解できない。
 ヴィトゲンシュタインがこの問題をどう解いていたか、あるいはそのままだったかよくわからない。
 ワタシ的にいうなら、私は長ーーーいこと、この手の自閉的感覚・言語世界の住人なんで慣れてしまったし、たぶん、この住人は、狂人、ということなんじゃないかとも思うのだが、このあたりが難しい。狂人というのは、まあ、定義はあえてしない、わけのわかんないこと言う人と仮にすると、それっていうのも通じないわけだけど、彼・または彼女にとっては、その通じない言語・感覚世界で孤立させられていても、なんというのかそれがある種苦痛とか他者に伝えたいとかそういうなんかなのだろうと思う。というか、なにか欺瞞が隠れているという感じがする。
 感覚Aの世界と人間社会の言語感覚の世界の両方になにげなく暮らしていて、いわば、人間社会の言語感覚に明るく絶望しきって、感覚Aの世界の孤独をそれほど苦痛と思わなければ、それはそれで、別になんら問題ない。なんというか原理的に狂気が回避されているようでもある。というか、狂気というのは関係性なんだろうな。
 で、感覚Aの世界というのは、ある意味では困ったものだというかうまく言えない。私の死とともに崩壊する何かなのだろう。
 森有正は、体験・経験・名辞という関係をしぶとく語った。体験がある意味で名辞を通して歴史的な普遍的な経験に至ることに精神の正しい在り方をみていた。まあ、それもわかるんだが、私は、どうも体験の以前にある感覚Aの世界というのが「私」にとっては大きな問題だな。

クローズアップ現代 “カリスマ”続々登場! ブログ新時代”、見たよ。

 サブリミナル効果(w)については、さておき。制作過程を少し推測させるものがありました。みなさまのNHKというか、クローズアップ現代としての切り方は、現状ではまだこういう感じかなと。
 佐々木さんが出るあたりは、実は、予想していました。書いてないので後出しじゃんけんみたいですが、知り合いにはちょっと話しておいたので略。
 佐々木さんが出られて、そして米国のブログ状況もわかれば、企画としては別の切り口も可能ですが、なかなか現状のメディアの力関係では微妙でしょう。っていうか、略。
 あと、予想としては、ガ島ライン、ネタフルライン、FPNラインはきっちり大当たり。というわけで、たぶん、現状のブログシーンのリテラシーのある人々にとっては、ま・た・か・よ、だったかと思います。
 ま、このラインをくさす意図はないですが、この方向は、ブログのありかたとしては資本主義の従属の運動をしているだけで、そうした運動に本質的に対立するかもしれない人間精神の表現活動のありかたとは別ですよ。表現者というのは孤独な戦いをするものです、とか偉そうに聞こえてもなんですが……。このあたりは吉本隆明の、高度資本主義が表現者を助ける云々議論、そしてそれがピークになって助けることがないというときどうするかという問題に関わっています。でも、表現者なんて食えているならとりあえずそれで十分。
 ただ、資本主義従属のラインがブログを盛り上げて、つまり、単純にいうと、広告費をもっと「こっち」に回せ、ということが可能になると、バブル期の出版業界みたいな、クオリティを含めた変化はあるでしょう。ま、このあたりはマジで考えると難しいか。ってか、資本主義の従属って切り捨てるように捉えるわけにもいかないかなどなど。(ちょっと、補助線。番組で橋本大也さんのアフィリ収入が年間100万円というのがあって、まあ、そうなのかなと思いました。ある意味、「情報考学」はうまく意味論的にSEOされているわけですし、橋本さんのキャラを含めて。で、これに対して、出版界だけど、いわゆる作家とか、一冊1500円の本、印税10%。5000部売れるとして、75万円。このバランスがどうなるか。)
 オプションの別のラインとしては、梅田・はてなラインというのも企画としてはありでしょうし、実はこのラインが5年後にはある程度顕在化する可能性が高いのですが、あれだけ梅田さんが奮闘してまだまだマスやいわゆる旧メディアにはうまく伝わっていない。というか、この側面において、はてなではけっこう叩く人も多いけど、梅田さんの孤独な戦いは見事なものですよ。
 あと、チカラ的には、ブログがこのクロ現的なトーンのシーンで強くなると2ちゃんねる的なチカラが相対化されるので揺り返しがあるでしょう(っていうか2ちゃんねるが増田化しないというのが今一番面白いネットのシーンだと思うけどね)。また、●●あたりもちゃらちゃら騒ぎ出すでしょうが、なんつうか、ちょっとうんざりだよ。古い人の偉そうなご意見や文章はガーベッジコレクトすべし。
 話が散漫ですが、ガ島ライン・ネタフルラインというのは、基本的にはミクシ的なものの親和です。うまく言えてないけど、ミクシ的なもののほうが、より大衆的なメディアなので、企業側としては、アルファーブロガーなんてカリスマ主婦的なものがよろしいわけですよ。あるいは、メディアに出てくる専門家タマゴみたいな。各分野で栗原はるみが期待されている、と。
 あと、なんか忘れているな。ああ、最大のアルファーブロガー、きっこ、の話が抜けていたか。ま、でも略。

替え歌

          Imagine there's no google
          It's easy if you search
          No info below us
          Above us the dark roof
          Imagine all the people
          Living for money...
          
          Imagine there's no U.N.
          It isn't hard to do
          Nothing to think or discuss on
          And no religion too
          Imagine all the people
          Living life in fake...
          
          You may say I'm a poemmer
          But I'm not the only one
          I hope someday you'll join us
          And the world will be as an ass
          
          Imagine no possessions
          I wonder if you could
          No need for greenpeas or hamburgers
          A motherhood of man
          Imagine all the people
          Sleeping forever