通じない感覚、または感覚Aの世界

 はてなとかで若い人の日記とか覗き見しているとコミュニケーションというのがなにかと話題になっているようだが、いわく、コミュニケーション力、コミュニケーション術、わかりやすさの技術、なんたら。
 で、ま、ベースには若い人なりの、通じないなぁ、とか、さみしいとか、孤独、とかいろいろあるのでしょう。
 ただ、なんつうのか、ある種の感覚的世界って、他者に通じないもんなんだよね。で、それがとても自分にとって当たり前なのに、社会にまるきし通じないっていう感覚、ってなんなのでしょうかね。
 ヴィトゲンシュタインが、この手のことを考えていて、その感覚をAと名付ける、というような思考実験をしている。「私」の内部ではその感覚と名辞は連結されているが、Aは他者には言葉で聞けても通じない。他者はその感覚を了解できない。
 ヴィトゲンシュタインがこの問題をどう解いていたか、あるいはそのままだったかよくわからない。
 ワタシ的にいうなら、私は長ーーーいこと、この手の自閉的感覚・言語世界の住人なんで慣れてしまったし、たぶん、この住人は、狂人、ということなんじゃないかとも思うのだが、このあたりが難しい。狂人というのは、まあ、定義はあえてしない、わけのわかんないこと言う人と仮にすると、それっていうのも通じないわけだけど、彼・または彼女にとっては、その通じない言語・感覚世界で孤立させられていても、なんというのかそれがある種苦痛とか他者に伝えたいとかそういうなんかなのだろうと思う。というか、なにか欺瞞が隠れているという感じがする。
 感覚Aの世界と人間社会の言語感覚の世界の両方になにげなく暮らしていて、いわば、人間社会の言語感覚に明るく絶望しきって、感覚Aの世界の孤独をそれほど苦痛と思わなければ、それはそれで、別になんら問題ない。なんというか原理的に狂気が回避されているようでもある。というか、狂気というのは関係性なんだろうな。
 で、感覚Aの世界というのは、ある意味では困ったものだというかうまく言えない。私の死とともに崩壊する何かなのだろう。
 森有正は、体験・経験・名辞という関係をしぶとく語った。体験がある意味で名辞を通して歴史的な普遍的な経験に至ることに精神の正しい在り方をみていた。まあ、それもわかるんだが、私は、どうも体験の以前にある感覚Aの世界というのが「私」にとっては大きな問題だな。