日経社説 半導体復活への再挑戦

 台湾だからと勘ぐるわけではないがこの話は案外複雑かもしれない。
 執筆子は半導体のことがよくわかってないみたいだが、というか、半導体は物作りという側面とソフトウェア産業という両面がある。後者が台湾系の華僑が強い。ちょっと現場を離れたのでなんだが、現在のCPUは華僑が設計しているのではなかったか。
 日本人はなにか物作りということで勘違いしているみたいだが、半導体などはすでにソフトウェア技術の側面が強く、しかもその技術を支えるのはきちんとした工学の学習体系なのだ。
 十年くらい前だったが、大学の工学部だったかの論理設計の課程をちょっと覗いてみて、あれま、これでラッチの設計からアキュムレーターの設計とかできるようになるのかいなと思ったことがある。まあ、そのレベルはすでに機能設計なのでどうでもいいといえばそうなのかもしれないが、半導体のテクノロジーとの関連ではどうしてもべたな技術が出てくる(効率的なNAND変換みたいな)。ソフトウェアでいえばアセンブラレベルというか。ああいうところが米国人というか米留人たちは鬼のように強い。

日経社説 「三角合併」を妨げないような税制に

 一年前と空気が違うせいか、この分野の議論がなんともおかしい。

 外国企業が自社の株式を対価として日本企業を完全子会社にできる三角合併制度が、税制面の取り扱いから外国企業にとって利用しにくくなる恐れが出てきた。対日直接投資は経済活性化のために必要であり、税制がその妨げとならないよう政府・与党に適切な措置を期待したい。

 昨年はそれが逆だったかと思う。
 村上欽ちゃんをつぶすと空気が変わるってことか。

毎日社説 鳥インフルエンザ 新型の脅威に危機感を持て

 満員電車のせきやくしゃみが気になる季節になった。これが新型インフルエンザだったら、と想像すると恐ろしい。
 新型はまだ出現していない。だが、予兆現象は続いている。

 ありえない出だし。

毎日社説 労働時間見直し 働き過ぎの助長は許されぬ

 率直にいうとこうした議論はむかつく。働き過ぎがひどい職場は去ればいいのだ。しかし、それができずに労働時間なんて正しい議論ができる労働の場の既得権益が主張される。この議論は、パートタイマーとのバランスで議論されない限り、欺瞞だと思う。

読売社説 [自治体破綻防止]「財政赤字の早期是正が肝心だ」

 私はこれは八百長なんだろうと思う。数値に見せかけの問題なのだろう。実態はもう一割方は破綻しているのだろう。夕張は見せしめというか荒廃のモデルケースなのではないか。まあ、暗澹とするのだが、事実は事実なのでどうしようもない。
 ただ、国の意図をこの件には感じる。
 いわゆる左翼もこの問題は突かない。あるいは国の問題にしてしまう。なぜ日本の市民は政治を国家の問題に帰着してしまうのだろうか。政治をできるだけ国家の問題にさせないというのが市民活動ではないかと思うのだが。

朝日社説 流域委員会 淀川方式が決壊する

 河川計画に住民の意見を反映させるため、国土交通省の地方整備局に設けられている流域委員会。その存続が、関西を流れる淀川で危うくなっている。
 同省河川局から10月に着任した近畿地方整備局長が、委員の任期が切れる来年1月で休止させると表明した。
 住民の参画を徹底させる手法で、これからの河川政策のモデルといえる委員会だ。

 これはこのモデルがもともと機能できないようになっていたからではないか。別の機構が必要なのではないかと思う。
 こうした問題は実は都道府県レベルの審議会にいろいろある。審議会は名目で権限はなにもない。しかし、審議会の識者というのはバカじゃないので、かなり実態を知っている。そうした声をどう市民から政治につなげるかなのだが、まあ、大きな障害が2つある。一つはこうした声を押しとどめる権力がある。もう一つは左翼がイデオロギー的なネタにしてしまう。個別の問題は個別のスコープで解決したいのだが、こういうときいちいちいわゆる市民活動家がじゃまだ。

朝日社説 携帯電池 安全対策を急げ

 はぁ、という感じか。

 日本勢は携帯向けを中心に小型化・高出力化を進めてきた。しかし、今回の回収で、安全性の向上についても抜本的な取り組みが必要になってきていることがはっきりした。
 今回の事態を引き起こした三洋は携帯向け電池のトップメーカーだ。業界の先例となるような厳格な生産管理や安全検証の仕組みを早急に作ってもらいたい。
 経済産業省も、リチウムイオン電池の安全基準作りを進めているが、こちらの作業も急がなければならない。

 これが社説の結語であっていいのだろうか。っていうか、そういう問題だろうか。
 個別の問題(電池特有の問題)があり、そうしたパティキュラーな問題に「安全性の向上についても抜本的な取り組みが必要」というジェネラルな対応が議論足りえるのだろうか。
 「厳格な生産管理や安全検証の仕組み」それ自体が、おそらくこの執筆子素人だろうと思うのだが、規格化されているはずだ。
 この問題は案外根が深いと思うし、聞屋なら直感的に変だと思って取材しまくるのではないかと思う。

ブログブームは去ったのだろうがエントリの質は

 概ね向上しているのだろうと思う。
 ただ、このところ人のエントリ読んでいて思うのは、落とし所から書かれている感じがする。そしてその落とし所の妙のひねりと、そこに至るまでの煽りが、芸のようになっている気がする。
 そこに、なにか私は奇妙なつまらなさを思う。
 煽り芸などは修辞なので、あるいはその修辞も才能のうちなので、ご勝手にだが、個々の対象を思考しているのではなく、メタな処理をしているだけだ。
 問題は、落とし所が、なんというか、理解のためのクラスというかデザパタ化しているように見えることだ。
 社会問題がまさに問題である核の部分にはなにかどろっとしたものがあり、それは私たちの人生の不合理とか矛盾とかそうした生活実感のどろっとした対応を持っている。そこがうまく言葉で受け止められていない。
 なぜなのだろうか。

その本を読んでないのでなんか言うのもなんだが

 きっかけ⇒404 Blog Not Found:ネットvs.リアルの衝突

本書、「ネットvs.リアルの衝突-誰がウェブ2.0を制するか」は、今やネットとリアルの境界面における取材では第一人者の感すらある佐々木俊尚の、文春新書二作目。

 で、目次。

第一章 Winny - 「私の革命は成功した」
第二章 P2P - エンド・ツー・エンドの理想型
第三章 著作権破壊 - ヒロイックなテロイズム
第四章 サイバースペース - コンピュータが人々にパワーを
第五章 逮捕 - 「ガリレオの地動説だ」
第六章 アンティニーウィルス - パンドラの箱が開いた
第七章 標準化戦争 - 三度の敗戦
第六章 オープンソース - 衝突する国家
第八章 ガバナンス - インターネットは誰のものか
第十章 デジタル家電 - iPodの衝撃
第十一章 ウェブ2.0 - インターネットの「王政復古」

 悪口でも著者批判でもない。そうとらないでほしい。
 この目次を見たとき、それだけで、私は、なんかこの本を読んだ気がしてしまった。
 そして、この本を書店で手にしてめくったとき、「やっぱりな」というような既視感にとらわれた。
 5章にはBigbanさんのネタがひかれているんじゃないかというページまで目に浮かんで萎えた。
 もちろん、私のこうした予想というか予感がすべて間違っていることはありうるし、私は現実から疎外されて生きてきたような人なので現実検証はけっこう冷酷に行う。ほいで、違っていたら、なんか書くと思う。
 予想通りだったら……。
 まあ、それはそれとして。
 目次を見て、このテーマはすべてブログで読んだことがあり、それらの落とし所にはデザパが存在している。
 そうした中で、なにが主張されるのだろうか?
 書名が「ネットvs.リアルの衝突」というのだが、あまり突っ込みたくはないが、佐々木俊尚さん自身が衝突したリアルが描かれているのだろうか。これはべたに言ったほうがいいかもしれないが、泉あいさんの構想したネットジャーナリズムの波紋、オーマイニュースの内情。こうしたリアルな部分にリアルな佐々木俊尚さんがおかれたとき、それをどう問題化しただろうか。どういうスタンスにたったのだろうか。ジャーナリストとして、であるとき、ジャーナリストはどのような意味を持ったのだろうか。
 問題は、リアルに人を巻き込む。その時、人は、あるスタンスと取る、というのは、スタンスがインタフェースを規定するからだ。
 ところが、実際には、というか、現在のネットの状況は、インタフェースから見える問題だけが問題としての言説性を持ってしまう。そしてその言説性は、産業との関連で意味づけされてしまう。
 ついでに。
 ⇒ガ島通信 - 「天下りあっ旋問題」ブログは世論を作り出すことが出来るのか

Life is beautiful」の中嶋聡さんが「天下りあっ旋全廃に反対したらもう自民党には票を投じない」というバトンを提唱しています。

 脊髄反射的に言うと、くだらなすぎる。
 もうちょっと言うとバカじゃないかとなるが、率直にいうとそのあたりで発言に萎える。

ちょうど「ブログと言う個人が発信できるというツールを得たのに、なぜか社会参加を行うという意識が希薄なのではないか。もう少しブロガーも社会に関わる意識、シップを持つようにならないものか」という議論をしたばかりでした。ブログ(というより情報を発信できるあらゆるツール)が、シチズンシップを発揮するために使われるというこのような試みが積み重ねられていくことで、少しずつ社会が変化していく。そんな世の中になるよう願っています。

 脊髄反射的に言うと、大きな間違いだと思う。
 ブロガーがどのように発言しても社会参加を意味している。
 印刷用CSSにぶくまはりつづけても、それも社会参加を意味している。というか、そのほうがもっと明確に社会参加を意味している。印刷用CSSが求められている職場や市場があり、それは生活だからだ。
 社会に関わるということは、自分のおかれたスタンスというか、抽象化されたレベルのありようにすぎない。国家を論じることはそのごく一部でしかなく、しかもその論じる部分での抽象化された私とはものすごく小さい私であるし、小さい私ではなくてはならない。
 小さい私が小さい私と連携していくリアリティだけが国家のような化け物に向き合う最後の砦になるからだ。
 たとえば、こういうことがある。
 ⇒BBC NEWS | Africa | Women demand end to Darfur rapes
 これはきわめてフェミニズムの問題でもある。だが、それがブログで議論されたのを見たことがない。しかし、それはそれだけの問題である。うまく言えてないが。
 それがフェミニズムの問題ではなく政治の問題でもイデオロギーの問題でもなく、生活者の実感のなかからそれが問題だと意識されるような個の小さな倫理観がどのようにネットの表現され、連帯を形成していくか。それだけが重要だ。それはとても遠い日にある結実を結ぶかもしれないし、そうでもないのかもしれない。
 ある言説が政治性を持つならその限定性のなかでしかありえない。
 私は小林秀雄を30年以上読み続けてきた。彼はどんな日本であれ若者は隠れるとして隠れた若者への確信をもって書いていた。若者は30年後に若者ではなくなったが、その期間をかけて読みづけた。そういう細いしかし、個々の人生を賭けた言葉の連鎖というものがあり、それが一人ひとりの市民を意味づけるようになる。そうした市民がどのように政治の場に現れるかは、忍耐強く待つしかないし、およそ言語による活動とは、小林秀雄が批評についてふれたように、忍耐の作業だ。