その本を読んでないのでなんか言うのもなんだが

 きっかけ⇒404 Blog Not Found:ネットvs.リアルの衝突

本書、「ネットvs.リアルの衝突-誰がウェブ2.0を制するか」は、今やネットとリアルの境界面における取材では第一人者の感すらある佐々木俊尚の、文春新書二作目。

 で、目次。

第一章 Winny - 「私の革命は成功した」
第二章 P2P - エンド・ツー・エンドの理想型
第三章 著作権破壊 - ヒロイックなテロイズム
第四章 サイバースペース - コンピュータが人々にパワーを
第五章 逮捕 - 「ガリレオの地動説だ」
第六章 アンティニーウィルス - パンドラの箱が開いた
第七章 標準化戦争 - 三度の敗戦
第六章 オープンソース - 衝突する国家
第八章 ガバナンス - インターネットは誰のものか
第十章 デジタル家電 - iPodの衝撃
第十一章 ウェブ2.0 - インターネットの「王政復古」

 悪口でも著者批判でもない。そうとらないでほしい。
 この目次を見たとき、それだけで、私は、なんかこの本を読んだ気がしてしまった。
 そして、この本を書店で手にしてめくったとき、「やっぱりな」というような既視感にとらわれた。
 5章にはBigbanさんのネタがひかれているんじゃないかというページまで目に浮かんで萎えた。
 もちろん、私のこうした予想というか予感がすべて間違っていることはありうるし、私は現実から疎外されて生きてきたような人なので現実検証はけっこう冷酷に行う。ほいで、違っていたら、なんか書くと思う。
 予想通りだったら……。
 まあ、それはそれとして。
 目次を見て、このテーマはすべてブログで読んだことがあり、それらの落とし所にはデザパが存在している。
 そうした中で、なにが主張されるのだろうか?
 書名が「ネットvs.リアルの衝突」というのだが、あまり突っ込みたくはないが、佐々木俊尚さん自身が衝突したリアルが描かれているのだろうか。これはべたに言ったほうがいいかもしれないが、泉あいさんの構想したネットジャーナリズムの波紋、オーマイニュースの内情。こうしたリアルな部分にリアルな佐々木俊尚さんがおかれたとき、それをどう問題化しただろうか。どういうスタンスにたったのだろうか。ジャーナリストとして、であるとき、ジャーナリストはどのような意味を持ったのだろうか。
 問題は、リアルに人を巻き込む。その時、人は、あるスタンスと取る、というのは、スタンスがインタフェースを規定するからだ。
 ところが、実際には、というか、現在のネットの状況は、インタフェースから見える問題だけが問題としての言説性を持ってしまう。そしてその言説性は、産業との関連で意味づけされてしまう。
 ついでに。
 ⇒ガ島通信 - 「天下りあっ旋問題」ブログは世論を作り出すことが出来るのか

Life is beautiful」の中嶋聡さんが「天下りあっ旋全廃に反対したらもう自民党には票を投じない」というバトンを提唱しています。

 脊髄反射的に言うと、くだらなすぎる。
 もうちょっと言うとバカじゃないかとなるが、率直にいうとそのあたりで発言に萎える。

ちょうど「ブログと言う個人が発信できるというツールを得たのに、なぜか社会参加を行うという意識が希薄なのではないか。もう少しブロガーも社会に関わる意識、シップを持つようにならないものか」という議論をしたばかりでした。ブログ(というより情報を発信できるあらゆるツール)が、シチズンシップを発揮するために使われるというこのような試みが積み重ねられていくことで、少しずつ社会が変化していく。そんな世の中になるよう願っています。

 脊髄反射的に言うと、大きな間違いだと思う。
 ブロガーがどのように発言しても社会参加を意味している。
 印刷用CSSにぶくまはりつづけても、それも社会参加を意味している。というか、そのほうがもっと明確に社会参加を意味している。印刷用CSSが求められている職場や市場があり、それは生活だからだ。
 社会に関わるということは、自分のおかれたスタンスというか、抽象化されたレベルのありようにすぎない。国家を論じることはそのごく一部でしかなく、しかもその論じる部分での抽象化された私とはものすごく小さい私であるし、小さい私ではなくてはならない。
 小さい私が小さい私と連携していくリアリティだけが国家のような化け物に向き合う最後の砦になるからだ。
 たとえば、こういうことがある。
 ⇒BBC NEWS | Africa | Women demand end to Darfur rapes
 これはきわめてフェミニズムの問題でもある。だが、それがブログで議論されたのを見たことがない。しかし、それはそれだけの問題である。うまく言えてないが。
 それがフェミニズムの問題ではなく政治の問題でもイデオロギーの問題でもなく、生活者の実感のなかからそれが問題だと意識されるような個の小さな倫理観がどのようにネットの表現され、連帯を形成していくか。それだけが重要だ。それはとても遠い日にある結実を結ぶかもしれないし、そうでもないのかもしれない。
 ある言説が政治性を持つならその限定性のなかでしかありえない。
 私は小林秀雄を30年以上読み続けてきた。彼はどんな日本であれ若者は隠れるとして隠れた若者への確信をもって書いていた。若者は30年後に若者ではなくなったが、その期間をかけて読みづけた。そういう細いしかし、個々の人生を賭けた言葉の連鎖というものがあり、それが一人ひとりの市民を意味づけるようになる。そうした市民がどのように政治の場に現れるかは、忍耐強く待つしかないし、およそ言語による活動とは、小林秀雄が批評についてふれたように、忍耐の作業だ。