日経 春秋(11/28)

 ちょいと野暮を。

「新しい味覚の発見は人類の幸福にとって新しい天体の発見に等しい」と述べたのは食通で知られるブリア・サヴァランだが、グルメと飽食が日常化した時代にあって少年が「神様」に出会うような味覚の経験は少なくなった。隠れた日本の味覚であった鮪のトロもやがてフォアグラやトリュフ並みになっていく。

 執筆子、若造か。隠れた日本の味覚か、トロが。

産経社説 総連「科協」捜索 北への不正輸出の根絶を

 総連の関係団体は「在日本朝鮮人科学技術協会」(科協)で、朝鮮労働党の工作機関「対外連絡部」の直轄下にある。会員は在日の研究者約1200人で、国立大の研究機関などに勤務し、幹部級は万景峰号で祖国訪問した際に北の研究者と接触している。

 これも粗方わかっていたことだったのだが。

 朝鮮総連やその関係団体に対する捜査も以前は事実上、タブー視された。小泉内閣が発足した5年前の11月、朝銀事件で警視庁は総連元幹部を逮捕するとともに、初めて総連中央本部を家宅捜索した。今年3月には、拉致事件で総連傘下の在日本朝鮮大阪府商工会などが捜索を受けた。

 江川達也はこの一点だけで小泉は偉かったと言っていたが、そうかもしれないなと少し思う。実際、小泉がどんな死に目になるのか見ておきたい。

毎日社説 前納金判決 学生を引き留める魅力作りを

 NHKの解説のほうがよかったように思う。で、と。ちと気になるのは、今回の最高裁判決なのだが、実際にはこれが適用されるのは私学の10%くらいではないか。現実にはそれほど意味はないことのように思えるのだが。

朝日社説 マグロ 消費国こそ資源保護を

 これはむちゃくちゃな議論ではないかと思う。消費というのはマーケットの問題だ。それと、マグロは最終的にはすべて養殖とすべきだろうというかそういう比率を増すべく豪州などとも連携していけばいい。というか、豪州の農業が日照りでひどいことになっているのだが、こんなときこそ農業日本なんかと手助けしろよと思うが。

朝日社説 11人の復党 「刺客」は使い捨てか

 小泉氏を信じて票を投じた有権者も、ハシゴをはずされたくちだ。次の選挙でぜひその怒りを表したい、と思う有権者も多いのではないか。安倍首相も安閑としてはいられないだろう。

 「小泉氏を信じて」っていう表現が面白いなぁ。朝日も政党選挙というのがわかってないのところがわろすわろす、と。要は政策ですよ。それとその責務の問題。前回の民主党は政策がめちゃくちゃだった。小沢は事実上郵政民営化だった。まあ、もういいや。

私が突っ込む話ではないが

 ⇒痴呆(地方)でいいもん - 経済学における実体主義と流通主義

EU労働法政策雑記帳: 構造改革ってなあに?
濱口さんのブログのコメント欄であった話です。乱暴に要約すると、余剰、利潤、経済成長のような経済活動の成果は流通的側面から生じるのか、生産面で生じるのかという問題です。

 hamachanの議論というか論旨を私が理解しているわけではないし、osakaecoさんのこのエントリの解説は、そーでしょと思う。
で、と。
 マルクスの思想だけど、「経済活動の成果は流通的側面から生じる」というのは、マルクスをいわゆる経済学のモデルに乗せるときは装置としてそうなるわけで、それはそうなんだけど、もうちょっと思想の側に戻すと、流通というか市場=交換なわけで、このマルクス思想の装置はある種概念的な装置であって、実際に市場がないという意味ではない、と私なんかは理解している。
 これは、「経済活動の成果」という言い方というか概念を私が知らないだけかもしれないけど、マルクスの思想では、これは価値の問題。そして、マルクスは別の自然哲学的なものから、労働価値を根源としているわけで、むしろ、その労働の価値が、ある種貨幣的に疎外されるというか、ちょっとマルクスを逸脱すると、人が貨幣に魅了され、貨幣を信頼する価値の呪縛の構造が社会の根幹を形成するし、その内部に市場の本質が隠れていたと、と、見ていたのだと思う。
 スラファ以降、森嶋のモデル(サミュエルソンのモデル)でも、余剰価値は利潤と等価なので、それはむしろ、国家に閉じる線形なモデルのトートロジーのように思う。
 関連はこれ⇒「 マルクス経済学の解体と再生: 本: 高須賀 義博」
 このあたりで、れいのポランニ的なものを混ぜると、なんだかなの世界が醸されてしまうわけだけど、いずれにせよ、市場を介して権力というか富の蓄積=支配・使役の合理的な権力が形成される。かなりひどいことをいえば、マルクス的な意味での経済の成長というのはそういう権力と無縁ではないと思うのだが。

まあこんな感じ、マルクスと価値のこと

 ⇒お金とは何かを明らかにしたマルクス

 もっとも、マルクスも言い方も分かりにくいことが多い。例えば、第一章商品の第一節の題名は、「商品の二つの要素:使用価値と価値」となっているが、使用価値と価値を分けて考えるとはどういうことか。そもそも、使用価値は価値の一つではないのかと言いたくなる。初っぱなから分かりにくいのだ。
 実は、マルクスのいう「価値」と「使用価値」は別物なのだ。それは本文を読んではじめて分かることである。それでは不都合だということでフランス語版では「使用価値と交換価値つまり本来の価値」と変えてある。では、マルクスの言う「価値」とは交換価値のことかというとそうでもない。

 まず、「価値」と「使用価値」は別物ということ。ただ、経済学的には前者はナンセンスとさらっと捨てられるのだろうと私などは思う。
 マルクスはまず、価値というのを、なんつうか神秘的なドクサとしているとしてもいい。これは自然哲学の帰結でもあるのだ。
 こんな感じ↓

 たとえば、机の値段は何で決まるか。それは机の使用価値かと言えばそうではない。どんな机もその上でものを書いたり読んだりするのに使うという点では変わらない。だから、基本的に使用価値ではどの机の値段も差が付かない。ものの値段、つまりものの価値を考えるときには使用価値は考えてはいけないのだ。
 では、机の値段の違いは何から来るかと言えば、その机をつくるのにどれだけ手がかかっているかだろう。いい材料を使えば高くなるが、そのいい材料も探してくるのに手間がかかる。こういうふうに、その机を作るのにどれだけ労力がかかっているかで価値は決まる。これを労働価値と呼ぶ人もいる。マルクスにとっての商品の「価値」とは、まさにこのことである。
 しかし、マルクスはこれを単に「価値」と呼んでいるので注意がいる。

 これに対して使用価値とは↓

 逆に、机の使用価値は、それを作るにのどれほど手が掛かっているかとは関係がない。いくら手が込んだ机でも、使い方は同じだからである。
 しかし、その机は実際に市場で何円の価値があるかとなれば、別の考え方を導入する必要がある。つまり何円の価値があるかと言うことは、何円のお金と交換できるかということである。そこで交換価値という考え方がでてくる。 

 この解説を書いた人はここで、市場をマルクス的にある程度実体的にとらえているが、これはとりあえず一種の概念装置なので、個別の、あるいは歴史的な市場というものではない、と私は理解している。
 で、と。この人の解説はこの先が、まあ、なんというか、マルクス慣れしてないと支離滅裂に読まれるかもしれないと思うし、私なんぞがくだいてもそれになりがちなので、どうもあかんなと思うのだが。

 この中で注目すべきは、この「価値」の概念が広まるためには、人間が平等であるという考え方が広まる必要があるということだ。だから、奴隷制労働に基づいていた古代ギリシャアリストテレスには、この「価値」の概念が分からなかった。
 しかし、マルクスは、この「価値」の概念を広めた貨幣経済の発達が、人間の平等という考え方を広めるのに貢献したとも言っている。

 というか、ここでさっきのエントリのことが関係しているけど、市場が社会に介入してくる契機というのと、貨幣が蠱惑的なものになって人を支配するという市場的現象が生じる。
 これはなぜなのか? ここに突っ込んだポランニの思想でやや混濁があるのは、これを普遍的な人類のモデルにするのか、歴史的なモデルにするのか、という点だ。栗本慎一郎なんかも同じごちゃごちゃになっている。まあ、そう見る私がいけないのであって、これは人類の普遍モデルあって、歴史はそのケーススタディだと言えるか。ドツボをさけるのでここはパス。
 もうちょっと先に進むと。

 たとえば、商品は利用される物としての役割だけでなく、「価値」としての役割もある。そういう場合に、商品の「価値の形態」「価値形態」という言い方をする。逆に、その本来の役割は「自然形態」と呼ばれる。しかし、日本語で理解する場合には、「形態」という言葉を省略して考える方が分かりやすいことが多い。
 また、「何々の現象形態である」という言い方もしきりに出てくる。この場合は、「何々を表す役割を持っている」あるいは「何々の表れとしての意味をもっている」ということである。

 マルクスもそうした議論を展開して、金から貨幣を導こうとしている。つまり、市場と商品ありき、なわけだ。
 私はそう考えていないし、マルクスのそうした思想は時代的な表現の制約というか説明モデルの制約だと理解している。私は、最初に貨幣と市場があるのだと、貨幣から商品が生じるのだと考えている。ただ、それはそれだけ言えばトンデモなので、どう説明するのかむずかしい。というか、マルクスや古典的な経済学説に引き込まれそうになる。
 トンデモでどさくさにいうと、貨幣と市場という公平な権力が、自然的な形態では王=国家に所属しているのだが、その公平な権力が王=国家を支配するという循環が歴史の大きなうねりになっているのだと私は考えている。
 最初に貨幣ありきであり、最初に貨幣=蠱惑化される価値の蓄積=公的な使役というものがまず、人間集団のなかに発生する、で、それは当然ながら、共生の機能を持ちながら、どこかで逸脱したとき、実体的な貨幣化が行われるのだろうと思う。ついでにいうと、その貨幣を国家側でコントロールする技術として実体的な貨幣の学が生じたのだろう。

ちょっと野暮レス

 トラバを見て。
 簡単に⇒Death To The Apple Gerls

finalventさんは異様にニューアカくさいなあ。それと「勉強しろ」っていうわりにfinalventさん自体のドイツ系の教養が疑われる。
 
コジェーヴくさいヘーゲルとか、おフランスハイデガーとか、どうにも。地に足が着いてないで、50メートル浮いてる感じがするんだけれども。

 「ドイツ系の教養が疑われる」は素直に受けておきます。というか、自分の思想はかなり後期ハイデガー的なものなんだけど、ハイデガーを冠して語っていないというか、むしろ、ベルクソン小林秀雄的なものと一緒に、奇妙にしか放言してないですし。
 で。
 「コジェーヴくさいヘーゲルとか、おフランスハイデガー」これは、意図的ですよ。むしろ、ニューアカで読み落とされたところを補ったらということです。つまり、そうすることでいわゆる現代フランス哲学というのの限界がくっきりしてくるからということです。
 ヘーゲルについてもそうではない部分が自分の考えの根にあるのですが、まあ、やはりヘーゲルを冠さんないと見えづらいかもしれません。
 あと、誤解か私の勘違いか、「勉強しろ」とか言ってたか?
 こんな感じかと思う⇒極東ブログ: 教養について
 なんとなくだけど、自分がたいしたことないので恥ずかしいのだけど、若いときはギリシア・ラテンと文献学というかべたなテキスト・クリティークを二年くらい学ぶといのではないかなと思う。むしろ理系の人が。

人に向かって自意識過剰だなと思ったことはあるが言ったことはないように思う

 単純に言うと、他者に向かって、おまえは自意識過剰だと、言えるほどの自意識をもってないというか。
 というか、書かれた自意識というのは、言うまでもないことだが、読まれうる視線のなかの総合として出てくる。だから、書かれたものがそのまま自意識であるということは前提としてありえないのだが、そのあたりをふつうに理解している人は少ないかと思う←こういう感想が自意識過剰に見えるのでしょうけど。
 いわゆる作家というのは、社会システムを介して、読まれうる視線を了解し、その了解を社会責務とし、さらに労働の対価としている存在。
 それでも、職業作家でもどう読まれるかでその自意識には大きなプレッシャーがあり、簡単にいえば、ふつうの人はそこで潰れるようにできている。そこで生き残る職業作家の自意識というのはもう運命というか不幸としかいいえないものであり、その必然性だけが社会的に是認されるものだろう。作家に必要なのは才能ではなく不幸。
 例でひいては失礼かもだが、noon75さんは、私もよく出会ったけど、ふつうに帰国子女というか外人の自意識ですよ。その関心分野が文学とか女(性)だったりするので、ちょっとアレげなトーンを持つし、ご本人も遊びのご自覚があるでしょうし。なので、自意識の表出というのはちょっと違うでしょう。
 話をちと戻すと、ブログというのは、やっているとわかるけど、どれだけ読まれているかわかる。で、この読まれうる数で、単純にいうと、きちんと書き手の自意識はつぶれるようにできている仕組みだ。いかに書き手の自意識をつぶすかという点では、よくできたシステムがブログだと言っていい。(もうちょっというとネット自体がそうだと思うので、オーマイニュースは自然に自滅すると思う。)
 潰れないためには、自意識の確立よりも妥協とかが必要になる。強固に自意識側に引きつければそれだけ潰れやすくなるし、そういうのをうまくつぶす才能の持ち主みたいな人というかプロだね、プロがいるものだ。ある程度のビューがでれば潰し屋のプロみたいのに向き合うことになるし、またそういう扇動に従属する勢力も磁場みたいに発生する。これはそういう仕組みなんだからしかたがない。
 あるビュー以上で潰れてないブログとかがあれば、その自意識とやらはすでに読み手の側との統合というか妥協なんですよ。どのように妥協したかというという妥協をいわゆる自意識のなかにフィードバックさせるかどうかで、潰し屋を浮かせるように自意識はずしみたいにしていくしかないというか、結果そうなる。
 人気ブログを書く法みたいのがいろいろでるけど、人気が出たブログは大半は潰れる運命にあるし、そういうもの。でなければ、潰れない支えがあるわけで、それはそれというだけのことなのでブログである必要はない。