私が突っ込む話ではないが

 ⇒痴呆(地方)でいいもん - 経済学における実体主義と流通主義

EU労働法政策雑記帳: 構造改革ってなあに?
濱口さんのブログのコメント欄であった話です。乱暴に要約すると、余剰、利潤、経済成長のような経済活動の成果は流通的側面から生じるのか、生産面で生じるのかという問題です。

 hamachanの議論というか論旨を私が理解しているわけではないし、osakaecoさんのこのエントリの解説は、そーでしょと思う。
で、と。
 マルクスの思想だけど、「経済活動の成果は流通的側面から生じる」というのは、マルクスをいわゆる経済学のモデルに乗せるときは装置としてそうなるわけで、それはそうなんだけど、もうちょっと思想の側に戻すと、流通というか市場=交換なわけで、このマルクス思想の装置はある種概念的な装置であって、実際に市場がないという意味ではない、と私なんかは理解している。
 これは、「経済活動の成果」という言い方というか概念を私が知らないだけかもしれないけど、マルクスの思想では、これは価値の問題。そして、マルクスは別の自然哲学的なものから、労働価値を根源としているわけで、むしろ、その労働の価値が、ある種貨幣的に疎外されるというか、ちょっとマルクスを逸脱すると、人が貨幣に魅了され、貨幣を信頼する価値の呪縛の構造が社会の根幹を形成するし、その内部に市場の本質が隠れていたと、と、見ていたのだと思う。
 スラファ以降、森嶋のモデル(サミュエルソンのモデル)でも、余剰価値は利潤と等価なので、それはむしろ、国家に閉じる線形なモデルのトートロジーのように思う。
 関連はこれ⇒「 マルクス経済学の解体と再生: 本: 高須賀 義博」
 このあたりで、れいのポランニ的なものを混ぜると、なんだかなの世界が醸されてしまうわけだけど、いずれにせよ、市場を介して権力というか富の蓄積=支配・使役の合理的な権力が形成される。かなりひどいことをいえば、マルクス的な意味での経済の成長というのはそういう権力と無縁ではないと思うのだが。