まあこんな感じ、マルクスと価値のこと

 ⇒お金とは何かを明らかにしたマルクス

 もっとも、マルクスも言い方も分かりにくいことが多い。例えば、第一章商品の第一節の題名は、「商品の二つの要素:使用価値と価値」となっているが、使用価値と価値を分けて考えるとはどういうことか。そもそも、使用価値は価値の一つではないのかと言いたくなる。初っぱなから分かりにくいのだ。
 実は、マルクスのいう「価値」と「使用価値」は別物なのだ。それは本文を読んではじめて分かることである。それでは不都合だということでフランス語版では「使用価値と交換価値つまり本来の価値」と変えてある。では、マルクスの言う「価値」とは交換価値のことかというとそうでもない。

 まず、「価値」と「使用価値」は別物ということ。ただ、経済学的には前者はナンセンスとさらっと捨てられるのだろうと私などは思う。
 マルクスはまず、価値というのを、なんつうか神秘的なドクサとしているとしてもいい。これは自然哲学の帰結でもあるのだ。
 こんな感じ↓

 たとえば、机の値段は何で決まるか。それは机の使用価値かと言えばそうではない。どんな机もその上でものを書いたり読んだりするのに使うという点では変わらない。だから、基本的に使用価値ではどの机の値段も差が付かない。ものの値段、つまりものの価値を考えるときには使用価値は考えてはいけないのだ。
 では、机の値段の違いは何から来るかと言えば、その机をつくるのにどれだけ手がかかっているかだろう。いい材料を使えば高くなるが、そのいい材料も探してくるのに手間がかかる。こういうふうに、その机を作るのにどれだけ労力がかかっているかで価値は決まる。これを労働価値と呼ぶ人もいる。マルクスにとっての商品の「価値」とは、まさにこのことである。
 しかし、マルクスはこれを単に「価値」と呼んでいるので注意がいる。

 これに対して使用価値とは↓

 逆に、机の使用価値は、それを作るにのどれほど手が掛かっているかとは関係がない。いくら手が込んだ机でも、使い方は同じだからである。
 しかし、その机は実際に市場で何円の価値があるかとなれば、別の考え方を導入する必要がある。つまり何円の価値があるかと言うことは、何円のお金と交換できるかということである。そこで交換価値という考え方がでてくる。 

 この解説を書いた人はここで、市場をマルクス的にある程度実体的にとらえているが、これはとりあえず一種の概念装置なので、個別の、あるいは歴史的な市場というものではない、と私は理解している。
 で、と。この人の解説はこの先が、まあ、なんというか、マルクス慣れしてないと支離滅裂に読まれるかもしれないと思うし、私なんぞがくだいてもそれになりがちなので、どうもあかんなと思うのだが。

 この中で注目すべきは、この「価値」の概念が広まるためには、人間が平等であるという考え方が広まる必要があるということだ。だから、奴隷制労働に基づいていた古代ギリシャアリストテレスには、この「価値」の概念が分からなかった。
 しかし、マルクスは、この「価値」の概念を広めた貨幣経済の発達が、人間の平等という考え方を広めるのに貢献したとも言っている。

 というか、ここでさっきのエントリのことが関係しているけど、市場が社会に介入してくる契機というのと、貨幣が蠱惑的なものになって人を支配するという市場的現象が生じる。
 これはなぜなのか? ここに突っ込んだポランニの思想でやや混濁があるのは、これを普遍的な人類のモデルにするのか、歴史的なモデルにするのか、という点だ。栗本慎一郎なんかも同じごちゃごちゃになっている。まあ、そう見る私がいけないのであって、これは人類の普遍モデルあって、歴史はそのケーススタディだと言えるか。ドツボをさけるのでここはパス。
 もうちょっと先に進むと。

 たとえば、商品は利用される物としての役割だけでなく、「価値」としての役割もある。そういう場合に、商品の「価値の形態」「価値形態」という言い方をする。逆に、その本来の役割は「自然形態」と呼ばれる。しかし、日本語で理解する場合には、「形態」という言葉を省略して考える方が分かりやすいことが多い。
 また、「何々の現象形態である」という言い方もしきりに出てくる。この場合は、「何々を表す役割を持っている」あるいは「何々の表れとしての意味をもっている」ということである。

 マルクスもそうした議論を展開して、金から貨幣を導こうとしている。つまり、市場と商品ありき、なわけだ。
 私はそう考えていないし、マルクスのそうした思想は時代的な表現の制約というか説明モデルの制約だと理解している。私は、最初に貨幣と市場があるのだと、貨幣から商品が生じるのだと考えている。ただ、それはそれだけ言えばトンデモなので、どう説明するのかむずかしい。というか、マルクスや古典的な経済学説に引き込まれそうになる。
 トンデモでどさくさにいうと、貨幣と市場という公平な権力が、自然的な形態では王=国家に所属しているのだが、その公平な権力が王=国家を支配するという循環が歴史の大きなうねりになっているのだと私は考えている。
 最初に貨幣ありきであり、最初に貨幣=蠱惑化される価値の蓄積=公的な使役というものがまず、人間集団のなかに発生する、で、それは当然ながら、共生の機能を持ちながら、どこかで逸脱したとき、実体的な貨幣化が行われるのだろうと思う。ついでにいうと、その貨幣を国家側でコントロールする技術として実体的な貨幣の学が生じたのだろう。