転載ログ

 極東ブログ阿部謹也の死で思った」より。他の関連コメントが読みづらくなるのでエントリに関係ない長文コメントを転載。


http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.google.co.jp/webhp?sourceid=navclient&ie=UTF-8

↑のnonecco氏は、私ではないのだけど、鋭い。

つまり、私はもう読者に徹したい。コメント欄やBBSには参加したくない。
だからといって、作者に対してコンタクトをまったくとらないというわけでない。
ただ、表示される必要がないわけだ。
表示されるとしたら、三十字で十分。

今一番気楽なところは、切隊くんときっこさんのところだね。
たまにしか言葉を送らないけど、伝わっているのかどうかはわからないけど、返事を気にしないでいいところが、実は、一番楽。
切隊くんのところでも、ななしさんでなく、表示されなくなってもいいのではとも思う。

コメントの数自体がバブル。それと、最悪なのは、コメントから恐怖の連鎖がおきている。伝言ゲームのデマだよね。最悪なのは、ブログにつくコメントから起きるわけだ。で、ブログの持ち主の責任にもなりやすい。

なので、コメントシステムが古すぎ。で、古い人たちほど、弊害につながるみたいかな。そこで、さるさるの日記のメール送信をシステム的にもっとすぐれたものにして、ブログの持ち主が管理や統計処理やレスポンス処理しやすくした方がいいと思う。あと、トラックバックも、同意を得てからするようにとタイムラグが入ったほうがいい。

ここらで、日本発のアイデアが実現されるのと、デマを読むのに多大な時間を浪費しなければならないことから解消されることを望む。若い人たちのために。

なので、もう、コメント芸は死んだな。(ブログの中でもね。)
投稿 noneco | 2006/09/10 18:00:24

男はセックスがしたいだけの生き物か

 ⇒セくらえ管理部 - 真昼からシャセイ日記(「セックスなんてくそくらえ」管理人日記) - 男はセックスがしたいだけの生き物
 たぶん、ちがう、と思う。
 でも、「僕はそうじゃない」と反論はしない。同意もしないけど。
 ちょこっと言うと「したい」んじゃないんだろうと思う。恐怖から逃げるような衝迫なのだろうと思う。ま、そう思う。

オーマイニュース略してオマニ。それともオマニー?

 オーマイニュースというのがどうも言いづらい。オーマイと来ると、どうしても、スパゲティとかプディング!とか言いそうになる。

 そこで、オマニと略するのはどうだろうか。
 あるいはオマニー?
 韓国発ということでハングルっぽい語感を大切にすると(なぜか)オマニかな。

アイデアを忘れる方法

 なんでこんなアイデアに自分はこだわっているのだろうかという無意識のこだわりを素直に見つめていくこと。
 ところで。
 アイデアを忘れないいい方法のほうだが、これは機動力の高いICレコーダーがいい。

安倍バッシングをすると小泉ってマシだったのかとかほのぼのしてくる

 これとか⇒livedoor ニュース - 自民党の皆さん、本当にこんな政権でいいのか
 まあ、ワタシ的には民主党がだらしなさすぎたと思う。
 衆院選のときの時点で小沢を出していたらよかったのに……ま、そうもいかないか。

ふときっこのブログを覗くと

 ⇒きっこのブログ: 秋の夜にはつづれさせ

それでも、1000年以上の時を超えて、秋の虫たちは、おんなじ声で鳴き続けてる。それじゃあ、1300年も前の「万葉集」では、コオロギたちはどんなふうに詠まれてたのかっていうと、いくつかの歌が残ってる。

 ?な感じがするのでググると。
 ⇒万葉集 こほろぎ - Google 検索
 このあたりからのコピペか。
 ⇒万葉集: 蟋蟀(こほろぎ)を詠んだ歌
 さらに。

だけど、ここまで書いて来て、今さら言うのも申し訳ないんだけど、「万葉集」に登場するコオロギシリーズの歌の数々は、実は、コオロギのことじゃないのだ。平安時代より前には、コオロギは「古保呂岐」って書いて、秋に鳴く虫の総称だった。

 これの展開も先のページのパクリっぽいといえばそうだが、まあテンプレか。
 とはいえこちらのサイトが「心もしのに」だがきっこのほうは「心もしぬに」としているのでベタなコピペではない。
 もっとも。広辞苑より。

しぬ‐に

(万葉仮名の誤読によって生じた語) (→)「しのに」に同じ。

 ただ、この誤読自体が継がれているのでベタに間違いとはいえない。

この歌のポイントは、「こころもしぬに」にある。「しぬ」ってのは、もちろん「死ぬ」じゃなくて、「沈む」とか「しんみりとする」とかって意味で、あえて漢字をあてるのなら、「萎ぬ」って雰囲気になる。

 ま、これは正解。
 ところで。このきっこ的な解釈は明治以来のベタな解釈の系統であって、万葉集うぜーとか思わずにベタにこれらの読むと、この「こほろぎ」が夜這いの関係に置かれていることがわかるはずだ。
 「男来ねぇかな」というのが万葉集のこほろぎの歌の心なのであった。

えええええ! うすいさちよ、って洒落にしてくれ

 ⇒asahi.com:アニメ「おじゃる丸」原案者・犬丸りんさん死亡 自殺か - 社会
 ⇒Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 「おじゃる丸」原作・犬丸りんさん、飛び降り自殺か
 ⇒「おじゃる丸」原案者、犬丸りんさんが飛び降り自殺

NHKの人気アニメ「おじゃる丸」の原案者、犬丸りんさん(48)が東京都武蔵野市の自宅マンションから飛び降りた。

 貧ちゃんとか(飛べるし)、金ちゃんとか(カネあるし)、助けてくれなかったのか。
 きもだめし〜⇒おじゃる丸 ++うすいさちよのスケッチブック++
 これとか笑う。だけど、この笑いの裏には、マジで恐怖がある。ちょっとくらいでも文学的な感性があればこれがお笑いで終わるわけでもなく、こういう恐怖を抱えて生きる天才のつらさを思うだろう。
 彼女はマジな恐怖を抱えて彼女は生きていたのだろうと思うというか、洒落のめしたから生きてきたのだろうと思う。もっともっと洒落のめして、生き続けていてもらいたかった。

同級生……

 っていう漫画あったな。紫門ふみの。アマゾンにはないや。別に読む価値のあるような漫画でもないし、絵がまぁ……。あの短編のなかでひとつだけ心に残るのがあって、ダメでやな男とダメでやな女というのが、似たもの同士だよなひひひみたいな、そしてそのままおせっくすだったか展開。まあ、そうでもなかったか。しかし、そういうだめだめだよの沈んでいくだめだめの性関係というのがままある。
 小説のほうの「もう頬づえはつかない」はまあふつうにだめだめの男だが(見延典子は北海道の女だったかと思う。北海道の女というのはどうにも私が経験ないだけかもだが色気というか艶というものがないように思う、もっともそれのある京都の女は最悪だが)、映画の「もう頬づえはつかない:東陽一,桃井かおり,奥田瑛二,森本レオ」奥田瑛二はよかったなぁ。男のダメさかげをテッテ的に描いて、あの泣き崩れるシーンなんかマジ泣けそうだった。桃井かおりはミスキャストな感じはしたな。

cover
もう頬づえはつかない
 犬丸りんは48歳だったのか。俺より一つ下。あるいは誕生日前ならまさに同級生。もしかすると、人生のどっかですれ違う可能性もあったんだろうなとちと思った。ま、ほかにも思った。
 私の同級生というのは、つまり、四十九歳だ。はてな的にはババアだろう。33歳だったか切隊さんが同級生の女をババアとか言っていたが、ババアの道、易からず。
 そういえば、二十代後半だったか三十代に入ったころか。高校の同級生に連絡をしたことがある。同級会の幹事とかしたのだったか、しかし、会に出た記憶はない。ただ、連絡網とやらがやたら大変だったのを覚えている。みんな姓が変わっているのだ。変わっていないのが二名いて、その一名にみんな結婚してんだねとぽろっと言ったら、彼女、その翌月だかに結婚するとかだった。ふーん。で、一名が残っていた。その一名を私が惚れていたわけではないが、いろいろと青春ぽい思い出のある同級生の一人だった。青学だったかな。さすがにもう結婚しただろうか。知らんな。
 私の歳の女は、まあ、フツー、25歳前には結婚して27歳くらいには一子。というのがそろそろ大卒。手が離れるか離れたかというあたりか。日本の女性の閉経年齢は50くらいだったか。いずれにせよ、なにかと、お役目が終わるころだ。と同時に、更年期になるのだろう。
 人にもよるのだろうが、更年期というのは洒落でなくきつそうだ。身体にもだし心にもくる。この心にくるというあたりが、私にはちょっとわからないものがある。
 文学ではよく女を描くわけだが、閉経と更年期の女というのの関係をうまく描いたのはあっただろうか。記憶をざっとスキャンするにない。
 50歳の男にとってもそうなのかもしれないが、50歳近い女にしても意識というのは他者であろうし、閉経+更年期という自己の性的な異和感というのはどのようなものだろうか。多分に他者性をもつと思うのだがというところで、中山ミキを思い出す。彼女は40くらいだったと思ったが。まあ、ああいう感じというかあの心的なリアリティは現代にもあるのだろうが、あまりうまく見えてこない。
 日本の歴史伝統からの逸脱世代といえば全共闘世代というか団塊というか、いずれ自分より10歳くらい上の世代の女たちがどうなったかとこの十年を思うに、よくわからない。印象としてはプロ市民のイメージはあるが。あと、オウムに寄せた私の世代からその下十年くらいの世代の女はどこに消えたのか。
 女たちが消えるわけはない。ただ、ネットからはまるで見えない。

レジとかで……

 スーパーとかコンビニとか、まあ若くない女がいる。若くはないなこの女とだけちと思う。旦那も子どももあるのだろうとかすかに思う。あまり見ない。見てどうなるというものでもない。ただ、そういう女たちの歳がわからなくなった。
 わからないというのは、俺より年上なのか、歳下なのか。うーん、こりゃババアだと思う女はだいたい40歳くらいだ。俺はもう50近いわけだから、50の普通の女というのは、マジババアなのだろうと思うが、わからない。
 デパチカだと希に、凛としたババアがいる。ババアといっても50くらいなのだろうから、俺くらいの歳だろう。で、なんだろ、この凛とした感じはと思う。うまく言えないのだが、性的なゆるみというのがない。身体も硬そうだ。まんこひからびというのだろうか経験ないが、ただ、なんか奇妙な感じがする。
 レジとかで個人的に好きなのはデブな女だ。デブな女が俺の好みというのではまるでない。なんか、場末のスーパーとかコンビニにデブな女がいると、なんか俺は幸せなのだ。平和だなぁ。もらったオツリ3円がとても貴重な感じがする。とかネットに書くとバカにしているとか言われるのだろうか。違うんだぁぁ。
 あと、ごつい看護婦さんというのも好きだ。いや、ごつい女が俺の好みというのではまるでない以下略。

歳を取った分若い女はvagueに見える

 高校生のくらいの女の子がタバコを吸っているの見かけるとき、これは案外二十歳過ぎかと思う。女の歳がまるでとはいかないがわからなくなってきている。20代の女とか子どもだなぁとか思うが、かつて18、9だった男から22の女がどう見えたかという記憶もあるので、それも奇妙な感じがする。
 同級生くらいの女だとすでに大卒の息子や娘がいるわけで、彼ら・彼女らからすると、私の同級生の女というのは、おかーさん、なのだろう。そのあたりも、よくわからない。彼女たちのひとりひとりが私はまぶしく見えた時期があった。個別のことはすっかり忘れてしまったが、あの女性が素敵だなとときめいたこともあるのだろう。その一人ひとりが今、おかーさん、なのだろう。
 ま、ってことは、俺がおとーさんってことでもあるだろうが。
 私もなんでブログにいるのかよくわからないが、ある年代からおとーさんに見えるとする。でも、弁当なんておとーさんじゃないよな、キンモーとか思われるのだろうと思う。私はなんとなくだが、私の同世代の男とコアの部分でほとんと同じ感性をしていると思うから、その意味では、つまりぃ、おとーさんたちはおとーさんなのだろう。
 まあ、そういうもんだともいえるし。
 そうではなくなりつつもあるのだろう。
 かつて私が若い頃の同級生というか±4歳くらいの女性たちは、こういう言い方もなんだがそれぞれに個性があって素敵な女性たちだった。
 でだからなのか、歳を取った分若い女はvagueに見えるというのは。見える若い女性たちは私のための(ためのっていうのも変だが)女性たちではなかった。
 そして、若い日を思うと、なんつうか、性欲とかよりも、もっとなにか語りたい思いのようななにかだった。