朝はおだやかこれから花に嵐となるか
さっさと花見でもしてくっか。
今日の新聞各紙社説は…
朝日の産経批判があまりに厨なんでびっくらこいた。ってか、自分ってそれでもどっかまだ朝日を信頼してたんだなと、なんか反省。
中国の反日問題は、常識的な線以上に社説が言えない。しかたないのかもしれない。日本はこうした点で無力な国家だし、また米国が動きだしたようでもある。
⇒米中関係:高官協議の定期開催で合意 「対日」に影響も
日本はそうしたなかでいつまでも自立はできないのだろう。というか、そのあたりでは、小林よしのりの言っていることは理解できないでもない。自立には対価が伴う。
日経社説 子供本位で幼保の一体化を
標題と内容が違う。子供本位じゃなくて、倹約ってことか?
産経社説 反日デモ暴走 中国は再発防止に全力を
ああいう国なんでこう言うことは現実的でもない。
毎日社説 知財高裁 特許を生かす戦略がいる
この話がよくわからない。
ただ、以下の引用の現場は知っている。
日本企業の特許申請は欧米企業に引けを取らない。しかし、取得した特許権が死蔵されていることも少なくない。
これは、会社経営の一環で、何日までに何本出せ〜ってなっているだけなんですよ。もっと社内でフィルターすべき。
読売社説 [産業再生機構]「残り3年で真の評価が決まる」
大きな間違いなければよし。えっと、それって故事成語でなんていうのだっか。ま、そんなことじゃないのか。読売社説にあまり内容はない。
読売社説 [風営法改正案]「生活の場を脅かすピンクチラシ」
この実態がわからない。一生活者として、その実感はない。
朝日社説 産経社説 「封殺」の意味をご存じか
ぅぁこれはひどい。罵倒とかする気力もおきない。読まなきゃよかったの部類だ。
ただ、これはあまりになんで引用しておく。
当初は産経新聞が教科書を発行し、扶桑社が発売する予定だったが、その後、扶桑社に一本化されたという。それはそうかもしれないが、産経新聞は同じフジサンケイグループに属する扶桑社の株主ではないか。当初の経緯からも「かかわり」がないとは言えまい。
6日の産経新聞は、特集面で慰安婦、南京事件などの項目ごとに出版社の名をあげて問題点を指摘した。その一方で扶桑社版の記述については評価ばかりだ。これは立派な後押しではないか。
「それはそうかもしれないが」で大人の議論は終わる。その先は厨房というか、公器で言うならそれ以下。「扶桑社の株主」としての責務の範囲は経営。もちろん、経営における社会的責任はあるという理屈もあるが、このことはまさに言論の自由の範囲の問題。
切込隊長BLOG(ブログ) - 「各論全員否定」の社会学
良いエントリなのだが、ちょっと複雑な印象も受ける。批判というのではないが、こうした事態を個人の位相で見る場合と社会の位相で見る場合とは違い、後者を前者に還元しないというのは、ある意味で社会学の暗黙の了解。
その意味で、山田の議論などは、社会学的に有効だし、その議論に批判されるべき点があれば、その方法論に乗っ取ってディテールから行わないといけない。
ま、大筋でいうと、「希望格差社会」というものは明確にあり、それに個人で対応できることでもない。先日のNHKの番組でホリエモンの活躍は面白くはあったしああいう番組だが、社会人として受け止めれば娯楽以上のものではない。
このエントリのコメントでちょっと気になったのだが。
20.名無しさん(2005-04-10T06:31:09+09:00)
つまらん。データの裏づけもとらず、関連領域のリサーチもなしに長文を書くようになったら終わりだな。最近特にこういうエントリーが多い。手を抜いてるだけだったらいいけど、視野自体が狭くなってたら手遅れ。
これはまさにそうで、だから、私なんど手遅れどころかお陀仏にあると見られている。その件に、弁解など私はないのだが、ブログの枠でみるとそういうことでもない。というか、そういうことでもない社会機能としてのブログが問題でもある。
うまく言えてないかもしれないが、厨を自認している男でも、35歳のヤマを越える日は来る(40歳かもしれない)。大人になるのだ。女と子供と社会になんであれ見切りを付け、その見切りを出すか隠すか、あるいは大人になるか厨を止めるか、あるいは厨を演じるか。ありげな、厨を演じても、「せんぱーい」とか言う声を受け止めていかなくてはならなくなる。
話を変える。
レストランで働いているとき、フロアボーイである私はよくぞ客の中高年男性に声をかけられた。何かの懇親会でも知らない人ばかりの状態で父親ぐらいの年齢の人たちと話さなければならないことも多々ある。住んでいた家でも回覧板を回すときや町内会の催しで挨拶以上の会話をすることが多かった。私は、社会とはそういうもんだと思っている。
社会とはまさにそういうもんだ。
多分、ブログもそうした社会の一面はある。
追記
この項、たしかにボロボロな話なので、コメント欄をご参照あれ。
たけくまメモ: そんなに俺は怪しいのか
そんなに、自転車に乗っている俺は呼び止めたくなるオーラが出ているのか? まあ、それはともかく。
多分、出てるんだと思う。非難とかじゃなくて。
花に嵐はたいしたことなかったが…
砂埃がひどい。花粉も多いのだろう。まいった。
花を見つつ、蕗味噌の握り飯を食う。いつの時代の人間かと思うが、ああ、にっぽんじん、であるな。
asahi.com:反日行動、きかぬ統制 北京1万人デモ - 国際
⇒Sankei Web 産経朝刊 北京反日デモ 店も車も狙いうち 料理店、窓ガラス全壊(04/10 05:00)
ざっと読む限り、これはひどいな。
ちょっと戦前というか戦中の排日運動を連想する。排日運動の歴史なども現在では教えられていないのだろうな。
中日関係問題で外交部が日本公使に申し入れ--人民網日文版--2005.04.08
ダライラマ訪日問題について、崔司長は「中国は日本がダライラマの訪日活動を許可したことに遺憾の意を表す。西蔵は中国領土の不可分の一部であり、西蔵事務は完全に中国の内政であり、いかなる外国勢力の干渉も許さない。ダライラマは決して普通の宗教家ではなく、宗教の衣をまといながら長期にわたって祖国分裂活動を進めている政治亡命者である。彼の訪日活動の政治的意図は非常にはっきりしている。日本が実際の行動によって承諾を履行し、ダライラマ訪日を阻止し、彼に政治活動に従事する舞台を提供しないよう希望する」と指摘した。(編集ZX)
こんなこと言うやつらと国際世界を生きていかなくてはならん。っていうか、ダライラマの偉さでもある。
⇒ダライ・ラマ法王 2005年4月来日情報
完売か。日本も捨てたものではないな。
余録:BRICs(ブリックス)
なんとも奇妙なテイスト。ブログで読むなら、そんなものか、なんだが。
ロシアはシベリア東進で太平洋に至る大帝国を築いた。しかし、そのシベリアは開発コストが高過ぎた。工場や精錬所を造ったが荒廃も速く、シベリアはロシアにカネとヒトをむだ遣いさせる疫病神となった。ロシアが欧州に専念していれば、西欧諸国並みの生活水準になっていた、と説く▲この論は正しいのだろうか。それともやはり、広大な国土は国力の源泉なのだろうか。そう言えば、ロシアはシベリア油田開発を急ぎ、中国は東シナ海の天然ガス田開発にやっきだが、日本企業は採算にのる事業なのかと首をひねっている。とすればこれもまた「呪い」の一種なのだろうか。
サハリン・プロジェクトとか記者は知らないのだろうかとつい思わせるあたりが、ビミョー。
いわゆるニート問題…
切隊さんのエントリ関連、および、下記の話でなんとなく思うこと。
職がないよ、の事態なのか、職はあるけど、そんな職はいやだよ、なのか。
後者だろうと理解。
こんな仕事に就きたくないな、就かなくても食っていけるし、と。
「食って」というのは、いわゆる個的ということ。自分一人は餓死しない、と。
かつてはそうではなかった(一人で生きていくというわけではなく、家族が志向された)わけだが、なぜそうではなかったか。
これはすでに社会科学的な説明は十分にあるのだろうか?
私は、結婚(家族への欲望)、つまり、家を持つという通念(社会価値)があったからだろうと思う。
そうした通念というかは、大筋のところで壊れたか? そこがよくわからない。
個的に生きる人が増えるというは都市化の必然なのだから、そういうもんか、と。
新聞の個配、国家の税制というのが家(戸)に依存しているので、国家はこうしたことが気になる。
個人の側の問題としては、内的には、職業技能は身に付かないし、「希望」もない、と。ただ、大衆というのは食っていられるなら、それはそれで不幸というものではないというのは、まさに大衆というもの。
大衆と国家ないし国家的な戸に依存した企業(新聞社など)の関係性の問題というだけか。
社会の連帯というのはなくなる。
まさに、社会学的にはデュルケム以来そうだが、そこに社会問題が起きるわけで、そのあたりがネットにしわ寄せではあるのだろう(mixiうぜーとか)。
個人と連帯…対幻想…
吉本隆明がもうよぼよぼで状況についての意見を聞けなくなって久しい(とこれは批判ではなく事実認識として)。で、も、吉本ならどう見るだろうか。
いや、話を単純にしよう。
個人の欲望なりが、共同幻想、対幻想、自己幻想という相で見ると(という言い方も変だが)、金銭・名誉みたない共同幻想性、それと自己幻想(趣味とかヲタ)みたいな二極は、昨今の議論でもわかりやすいが、対幻想的な部分が、共同幻想か自己幻想かのいずれかに引かれ、まさに対幻想的な部分の考察がずこんと落ちているように思える。
もちろん、吉本隆明のフレームが間違っていて、対幻想なんて、なんぼでもないよ、という蒸し返しはありではあるのだろう。
私がいわゆるニートの問題にそれほど関心がなく、また、どうも、すっとぼけているみたいだなと自分でも思うのは、所詮世の中と自分のことは、対幻想の領域にそれほど関係ないんじゃないかという、ある種の起点の感覚というかがある。というか、大衆の原像というのは、そういう家族幻想性の内部に閉じるものなのではないか。
いわゆるニートが問題であれ、社会のなかに対幻想的なものを可能にするだけ、つまり、そうした社会の原則が維持されれば、あとは、どうということでもないようにも思える。むしろ、そうではない、対幻想的なものが、共同幻想や自己幻想のなかで解消されるかのように見える世界のありかたの、その擬似的な問題なのではないか。
共同幻想、対幻想、自己幻想…
吉本学的には幻想領域ということなのだが。
しかし、これらは意識、つまり自意識から疎外された対象でもある、という意味で、
共同幻想としての他者(国家=宗教=神)、対幻想(恋人・子供)、自己幻想(セルフイメージ)としての他者という意味で、単純に、それらは”他者”としてくくれるものではないか。
そして、幻想性というのは、その”他者への欲望”ということではないか。
話は、がちょーんと飛躍するのだが、対幻想としての他者への欲望が形成できない社会がなぜ出現したかという問題ではないのか?、つまり、昨今の問題の基底構造というのは。
イラク邦人人質:「正義の戦争はない」 郡山総一郎さん、山形で講演 /山形
「正義の戦争なんてない。肯定する人ほど(戦場に)連れて行きたい」とメッセージを盛り込んだ。
「ヨン様」切手、日韓で発売へ
使えそう。
Public Safety Notice for foreign residents of Beijing (angrychineseblogger.blog-city.com)
In the event of a demonstration occurring, Japanese residents in Beijing, and those of non Chinese Asian origin who could be mistaken for Japanese citizens, are advised to act with heightened caution. This warning extends to overseas Chinese with non mainland accents and mannerisms.
Non Japanese residents are also advised to avoid the region due to large expected crowds, and the possibility that nationalist elements may target foreigners in general.
一種の人種差別暴動なのか。
内田樹の研究室: 反日デモの伝える声
なんか思わず素直にコメント書くと、ウンコができそうだ、おっと、そりゃやめとけ、と。
しかし、これが日本人のナイーブな中国観かぁという感じがする。
もっと現実の中国人に揉まれてみ、とも思うが、内田先生、そうしたご経験の上でこれを書かれていて、しかも、いわゆるイデオロギーでもないと…もし、そうなら…なおさら、わかんねーよ、日本人。
はてなブックマーク - 「正しい」ってどういうこと?
うーむ、こんなこと考えたこともないな。
⇒ゴットロープ・フレーゲ - Wikipedia
今の若い人たちってフレーゲとか勉強させられてるのだろうか。ま、基礎の基礎なんだけど。
ライフカード
わろた。
TVでやっているのか。
たいした脚本(っけっこうこれって会社とかの現実)。
ワシにはクーガのイメージが強すぎ、だけど。