Study links cell phones, tumors

A Swedish research institute has released a report that links the use of analog cell handsets and a benign tumor--adding fodder to the long-running debate over cell phones and brain cancer.

 ケータイは良性腫瘍と関係がありそうです。
 ま、この話はまた日本でもえるでしょうね。
 ⇒Study Links Mobile Phones, Benign Tumors

ちょっと人間じゃないよこれ系の美人の最初といえば、秋山リサ

 あるいはりりィか。りりィのほうはただの外人顔か。ちなみに、りりィはお母さんになってから、娘が彼女自身が歌手であることを知らなかったという話をしていた。そうかもしれない。ところで、りりィの娘っていうのもけっこうなんじゃないだろうか。
 あ、話は、秋山リサであるな。レモンちゃんとのコンビである(って言って通じたあなたは古すぎ)。清純派だった。20代後半からかなり壊れた。しかたないかもなという感じはする。

ちょっと人間じゃないよこれ系の美人の筆頭といえば、朝比奈マリア

 ここまでくるとなんか宗教的な世界になってしまいそうだ、と思う。混血でこういうバリエーションになるのだろうが。
 アイドル時代は精神的にもだいぶトラブルを抱えていたらしい。胃下垂もひどかったようだ。

夏目雅子

 そうそう彼女が1957年生まれ。12月だ。ちょっと人間じゃないよこれ系の美人だった。私は伊集院静と結婚したあたりの彼女が最も美しいという感じがする。
 彼女のことは、ってなことを書きながらあまり書きたくはない。というか、死んだ気がしていない。あのまなざしはたしかになにかを問いかけてくる。彼女は青春を失うことなく消えてしまった。20年が経つ。

天丼がたまに食べたくなる…

 天ぷらだの天丼などそれほど好きでもないのだが、たまに食べたくなる。そして気力がないと食えないものであるのだが、そろそろかなと、食いに出た。まずまずであった。
 この手のものは、なかなか食える店がない。
 昨今の「お塩でお召し上がり下さい」系も、それなりに技術を積んでいるところもあり、不景気の昨今リーゾナブルな店も増えているのだが、あの衝動的に食いたくなるのは、江戸前っというのが、あれだ、真っ黒とまでいかないまでも、甘醤油が飯にしみるやつだ。あれが、なかなか、むずかしい。甘醤油タレをかければいいってもんじゃないし、飯がしっかり炊けてないとな、と。
 海老がまた難物。でかければいいってもんじゃない。剥き方というか下ごしらえも料理のうちだ。そしてかき揚げだよな…。
 ってな具合だ。

スーダン・ダルフール危機=白戸圭一(ヨハネスブルク)

 率直にいうと醜い論説だなと思う。

 だが当時、世界の目はイラクに向いていた。凄惨(せいさん)な実態が注目され始めたのは、丸1年後の今春である。いまスーダン政府は、国際機関の人道支援に不承ながらも協力している。それを見ていると「国際社会の強い関心、注視があれば被害を小さくできたのではないか」と反省するとともに、どんなに人権感覚の欠如した政府も、世界の目は意識せざるを得ないことを改めて感じる。

 毎日新聞は今春なにをしていた?

 ダルフールで軍関係者がひそかに取材に応じ、軍が民兵を組織した経緯について話してくれた。それによると、昨年4月25日、反政府勢力が北ダルフール州の州都を総攻撃し、軍や警察が壊滅的被害を受け、軍は態勢立て直しのため民兵の組織化に着手したという。これが「世界最悪の人道危機」の始まりだった。

 これは論理飛躍だと思う。というのは反政府勢力の反乱はあった。それに政府側も応戦しなければならなかった。それには民兵導入が必要だった、と、そこまではいい。そこから、どうして住民への虐殺への始まりになるというのだ。
 というか、話はそこで隠蔽されているのではないか。私はこの事態は米国同様というわけではないが、特定人種の消滅を計るジェノサイドだと思う。被害者が特定されすぎている。そのことと、反乱軍応戦とはつながらない。

読売社説 [ネット心中]「連鎖反応的な行動をどう断つか」

 暗然とさせられる、深刻な社会現象である。

 私の率直な意見なのだが、この事件、私にはなんの関心もひかなかった。なぜだろう。慣れだろうか。死にたいやつは死ねよ、というのでもないのだが。ただ、この話、例えば極東ブログに書いても、つまんねー、だろうなとは思う。

 だれ一人として、死ぬことの意味をよく考え、踏みとどまる勇気がなかったことが、残念でならない。

 たぶん、そういうリアクションの問題ではないのだろう。つまり、「死ぬことの意味」「勇気」なのか。
 うまく言えないのだが、私は、ダルフール危機の問題に、ごくわずかながら関わることで、生きる意味のなにかを見いだしている。勇気とはなにかも考え改めている。
 この死者たちを、ダルフールにつれていけとは思わない。しかし、生きる・死ぬ人間のリアリティに首をつっこませるべきだったのかもしれない。いや、そういう問題でもないのかもしれない。が、いずれ、ある「生」のリアリティは欠落していたのだろう。その欠落が自然に死に接合しているのかもしれない。無責任な言い方に聞こえるかもしれないが。

 学校にも行かず、仕事にも就かず、求職活動もしない、「無業者」とも「ニート」とも呼ばれる若者が増えているという。集団自殺が多発する現象と、何か関連があるのだろうか。

 面白いこと言わはるぅ。
 たぶん、ニート的な世界は、ルサンチマンであるのだろう。一種の悪意だ。
 閉ざされた悪意かもしれない。
 とすれば、悪意を解消するなり、ルサンチマンを解くというより、開く課題が問われるのではないだろうか、というところで、読売の言説は開かれているだろうか? いや、読売と限らず。

朝日社説 イラク会議――復興の旗を振るには

 会議に出席したイラク暫定政府のサリフ副首相は「国連決議はどこへいったのか」と憤りをぶつけた。イラク支援が安保理決議にうたわれているのに、支援国が治安の悪さをたてに援助に本腰を入れていないという不満だ。
 だが、米軍と武装勢力の戦闘が続き、爆弾テロや外国人の拉致が相次ぐ現状では、国連も支援国も本格的な援助活動ができないのは当たり前である。

 すげ。ここまでねじ曲がった論理ってありか。

ブログ商売?

 先日のコメントにちょこっと書いたが、私はブログが商売になるか、というとき、組織的なビジネス・市場なりをまったく考慮してないわけではないが(しないわけにもいかない)、それより、表現者が食えるかということに関心がある。吉本隆明が80年代の初めに、高度な資本主義は表現者に片道切符として支援するものになると言い、そして、その達成が目に見えるようになると、往相として、どう表現者を活かすかという課題に移ってきた。
 ま、この話はなんども書いた。一つのモデルとしては、フリーペーパー的なものであり、あるいは古本屋といったものでもある。小型新興宗教とも言える(これは誤解されやすい)。

切込 ブログを書いて商売になるかどうかは成功者待ち

 とても説得力がある。ありすぎて、教授審査みたい。

 そうなると、やはりブログで継続的に価値を持ちうるのは一次情報の創出をコンスタントに行える体制を整えた書き手(ユーザー)であって、商業化においても頒布するに耐える話題性や品質を持つものということになるだろうと思う。その場合、上記の「高尚な」議論は市場に沿わない。なぜなら、その「高尚な」議論によって構成される一次情報を切磋琢磨するべきブログ群が絶対的に不足しているからである。むしろ、そういった「高尚な」議論はエクジットとして"Japan Watch Blog"に類される切り口でないとBLOGで喰えるというのはなかなかに考えづらいと思うわけだ。

 それはそうだな。