読売社説 [ネット心中]「連鎖反応的な行動をどう断つか」

 暗然とさせられる、深刻な社会現象である。

 私の率直な意見なのだが、この事件、私にはなんの関心もひかなかった。なぜだろう。慣れだろうか。死にたいやつは死ねよ、というのでもないのだが。ただ、この話、例えば極東ブログに書いても、つまんねー、だろうなとは思う。

 だれ一人として、死ぬことの意味をよく考え、踏みとどまる勇気がなかったことが、残念でならない。

 たぶん、そういうリアクションの問題ではないのだろう。つまり、「死ぬことの意味」「勇気」なのか。
 うまく言えないのだが、私は、ダルフール危機の問題に、ごくわずかながら関わることで、生きる意味のなにかを見いだしている。勇気とはなにかも考え改めている。
 この死者たちを、ダルフールにつれていけとは思わない。しかし、生きる・死ぬ人間のリアリティに首をつっこませるべきだったのかもしれない。いや、そういう問題でもないのかもしれない。が、いずれ、ある「生」のリアリティは欠落していたのだろう。その欠落が自然に死に接合しているのかもしれない。無責任な言い方に聞こえるかもしれないが。

 学校にも行かず、仕事にも就かず、求職活動もしない、「無業者」とも「ニート」とも呼ばれる若者が増えているという。集団自殺が多発する現象と、何か関連があるのだろうか。

 面白いこと言わはるぅ。
 たぶん、ニート的な世界は、ルサンチマンであるのだろう。一種の悪意だ。
 閉ざされた悪意かもしれない。
 とすれば、悪意を解消するなり、ルサンチマンを解くというより、開く課題が問われるのではないだろうか、というところで、読売の言説は開かれているだろうか? いや、読売と限らず。