自分が思うことをもっとわかりやすく書くことができそうにも思えるし、そうしたほうが誤解を招かなくてもよいとも思えるのだが、そもそもそれほど多数の人にとって意味のあるの内容ではないなら、わかりやすく書くことの弊害のほうが大きくなってしまうだろう。
 先日、ブログに社会人へみたいな話を書いた。了解もされ誤解もされた。私のブログとかこの日記を見ている人にはさして目新しいことは書いてない。もう少しさらに深く書くべきだったかと思う部分もある。たとえば、社会人が世間様からカネを得るということなら、それは「雇用」の問題だということだし、あの文脈からわかるように「雇用」とは犯罪(盗み)の抑制だし、そもそも市場がそれ自体の自警性から公共が求められるというのは、リバタリアン的な思想でもある。まあ、しかし、そうした話は捨てた。
 あの話は、きっかけは偶然だが、別途、「市民とは」というエントリーを書こうかと思っていたことがある。「市民とは」、これは端的にいえば、ヤクザのことなのだ。武装し自身の市場秩序を求めることであり、その自身というのが市民を定義する。だから、市民とは、民兵であり、民兵というのは、ドミニオンのカードがわかりやすいが、ようするにヤクザなのだ。
 以前、ヤクザは警察の民営化と書いて、奇妙な批判をもらったことがあるが、警察とヤクザの違いは市民から国家への経路にすぎず、国家が、まさに「暴力装置」として諸暴力を収納することによる。日本はそうした収納された暴力に馴化した歴史をもち、その歴史意識を逆に国家に繁栄しているために、逆説的にヤクザが自営化して共存するという変なことになっている。が、市民国家では、基本的に市民、そしてそこから民兵が生じて、それと国家の暴力装置性とのある均衡を持つ。これは、ようするに革命権として保持されるのだが、日本の場合、左翼がその最たるものだが、中華世界の異姓革命論にあるので、正義と天命を固着させた、いわば逆天皇制のようなイデオロギーを形成してしまう。単純な話、天皇制だの国家の象徴だなど攻撃していれば左翼というのは実質的には彼らが敵対する右翼となんら変わりがない。市民社会にあって革命とは市民の武装性、また民兵の存在から、銃の権利というものに変わっていく。銃の権利としては、米国社会が有名だが、実際にはスイスのほうがわかりやすい。有事には、市民が民兵となれるように、公共機関が市民に銃を配分する仕組みがある。
 まあ、しかし、そうした話をしても、ほとんど通じないだろうし、通じることの意味もないだろう。反面、日本でもそれなりに公共というのは、もっとも原則的な市民性から演繹されるものなので、まあ、そういう話に転じた。