書架にある大森荘蔵の本をぱらぱらとめくる。自然にわかるところと、わからないところがある。ふっと彼が、道元の有時について触れたところがある。大森は、発表されたものにはそれほどの言及はないが、道元をよく読んでいた。が、彼らしい謙虚でもあるが、有時がなんであるかといった理解や解説は示さなかった。大森はその他の仏典もよく読んでいた。ときにはっと驚くような言及がある。だが、大森はおよそ、誰かの思想をそのままの形で受け取ることはなく、彼自身の疑念の原形にまで沈めていった。それが哲学者としての、つまり、廃人としての儀礼のように見ていただろうし、それをもって哲学の徒として食っていけることに、つまり東大の教師であることにひとつの倫理を見ていた。くどいようだが、自身を廃人と思ったからこそ、教師をなしとげていたというものだろう。
 大森はよい教え子を結果的に育てた。彼らはみな大森を踏まえて大森を超えていったかに見える。だが、大森の生の姿を見ると、実は、その生の姿において誰ひとり大森を超えることができていないように見える。
 大森は「死」を知っていた。どうやら子どもの頃から知っていた。それに生涯をかけたともいえるし、そして晩年はそれをついに乗り越えてしまった。
 大森には教師以外に、ふつうの生活人としての姿もあった。最後の著作のカバーの拙いかに見える絵は彼の孫の手によるものである。
 大森は死を見つめ、そして、孤独である以外なく、廃人である以外なく、そこに徹して、教師であり世人でもあった。そして、恐るべき哲学を残した。