晴れ

 台風一過というような晴れ上がりで、まだ見てないが咲き始めた桜も美しいだろう。
 昨日は、天候ともあいまってつらく動揺することがあった。坐禅というか瞑想して静かにする以外なにもできなかった。
 思いがけなくわかったことがあった。またacimに関係する。acimの基本原理、"God is"ということだが、これは道元の言う「仏法」と同じだろう。そして物質的なる世界が存在しないというのは「万法我にあらざる時節」ということだろうと。つまり、世界が存在していないというのは一義に認識論的な問題ではなく(もちろん認識論的な問題は意識の前面には立つのだが)まず存在論的な構図をもっているということなのだろう。
 「仏法」=「天国」=この刹那=有時、にあって、ただ「存在」があり、自分に与えられ、不死となる。迷いは、連続する時間というもので、時間は連続しない。この刹那の前後に際断され、奈落に消える。
 連続する時間がなければ、ものの運動はないが、「仏道もとより豊倹より跳出する」のでこの刹那の、大森のいうぼんやりとした時間、また、「薪は灰となる」という「運動(=ゼノンパラドックス)」が、理法・理性として与えられる。不昧因果である。しかし、「さらに返りて薪となるべきにあらず。 しかあるを、灰は後、薪は先と見取すべからず」としてただ、有時=この刹那の永遠=天国のなかにある。
 まあ、むりやり道元にこじつけるというものでもないし、書けば狂気のようだが、acimの形而上学の構造は、いわゆるフロイトやまた現象学的な認識論の還元形態ではなく、より強固な、道元的な存在論に根ざしているのだというのが、自分なりによくわかった。
 そこから見れば、禅とは聖霊の働きであり聖霊の交わりだろう。そしてそれは、我の意思に向き合う聖霊の働きでもある。
 「身心を挙して色を手取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、鏡に 影を宿すがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方は暗し」もまたそういうことかとも思うがそこはよくわからない。
 そういうスキームができてわかるというものでもないだろうが、「許し」="undo"ということがこうした時間・存在構成と聖霊の働きとして関連付けられてはいるのだろう。
 あと、自然の残虐さ、普通に考えれば許し難い残虐な人間行為というものの、人間総体としての「罪」とそれゆえの総体の許しということも思った。
 
追記
 この考え、翌日に修正有り。