雑感

 愛というのは、よくわからんものだと思う。
 よく、議論をするとき、定義を明確にしろ、おまえはどういう定義で言っているのかと詰問する人がいるが、学問ではなく、人間が考える大切なことは生活経験の直感に支えられているのであって、定義はできない。愛を定義してから、愛を議論するというのはただの愚か者だろう。
 愛について、エロスとアガペーといった、いわゆるターミノロジー的な話もあるが、きわめて率直に言えば、戯れ言だろう。
 人は、愛を暗黙的に知っている。それが起点になる。では、どのように知るかというと、単純に魅惑・魅了の意識だろう。これが自我の臨界を暗示するので、いろいろとやっかいなことになるし、それもまた暗黙の所与だろう。人は、うっすらと、愛のなかで死ねると理解しているし、愛のなかでしか死ねないと知っている。
 愛が難しいのは、それがどうも必然的に失敗するような、なにか存在論的な仕組みを持っていることだ。たぶん、自我意識との相関の、生物的な基礎があるのではないか。
 別の言い方をすれば、自分が何かに魅了されている、だから愛している、というのは、お子ちゃまであって、そうした愛が砕かれることで、愛ってなんべ?ということになる。そしてまた次の魅了を求めていくのは、ただの愚行だろう。
 外在的な魅了が暗示しているのは、人は愛さなければならないという奇妙な当為に向き合うときだ。なぜ、そのような当為があるのだろう(いやないのかもしれないが)。むしろ、魅了を分散するなり生物に仕込むならそれで、愛の当為は不要だ。
 が、どうもそうではないというあたりに、人間のなにか本質があるのだろう。
 ここで難問なのは、当為としての愛と、所与としての愛は、まったく離れているものでもないことだ。
 私はある人のことを思う。
 私はついぞその人を愛することはできなかった。できないだろう。所与としての愛を奪ったのは、むしろその人であったという怨恨の感覚もある。むしろ、当為としての愛をその人の自我と併せて問われることが私にはきわめて不快・不愉快だった。そして、そうした存在関係としての世界に投げ出された自分がとても嫌だった。まあ、死にたいなほどではないが、なんで世界はかくも私にとって糞なんだろうか。
 しかし、この問題の解法は、当為としての愛の側にある。この糞な世界をあなたの意志で愛しなさいというところにしか、どうも解はないようだ。というところで、いったい、その最後の当為を支えているのは誰なんだ?
 私にとって神なるもがあるとすれば、そう神妙な議論ではなく、この世界を愛しなさいという当為の根底としての存在を、私の人生の経験の総体がそれに依拠するかということでもある。
 所与としての愛がそれゆえに打ち砕かれてしかも、そんな神しかないのかよと、恨み辛みの声をヨブのようにあげるときに、すでにヨブとともに神の根底性への傾きがある。