雑感

 たぶん真理は宗教の中にはない
 倫理的な意味ではあるかもしれないが。
 以前というかもう随分昔になるが、大森荘蔵のエッセイを読んでいて仏教への批判というか、ごく普通に仏教の考え方を疑問視しているのがあって、ああ、仏教が必ずしも真理ではないのだろうなと思ったことがある。いやそれだけいうと稚拙だが、こういうスキームではいつも仏教とはなんぞや、仏教における真理とはという問いかけに転換する(おまえの仏教理解は全然違う正しい仏教はなんたら議論)が、それはそもそも間違いだろうなという含みである。哲学は、数学なんかと同じで、実は、けっこう真偽が問えるものも多く、意外と宗教的な真理も包括して偽を下せるのではないかと思った。私は宗教には別段真理などないんじゃないかと思っている。
 まあ、いわゆる仏教、とするしかないが、縁起説と無我説がある。前者は時間と因果と意識をどう含めるかで実際には多様な議論があるが、無我説が側からすると、しかも、無我=意識主体の不在、というのではなく、諸存在の自明な存在性という点になるが、個々の存在=我は縁起によってなりなっているだけで、本質的にというかそれ自体で存在するものではない、ということになる。諸存在に究極の実体はないというか。
 ただ、この考えでは、存在のすべてが一つとして存在するという議論を引き起こす。個別存在はないが、全体という唯一存在がある、という議論だ。このあたりで、仏教の考えは分かれる。それもないとするのが正しいようだが、では、縁起を支える動因は何か? つまり、ダルマ=法が問われ、そのあたりで、法はある、としてしまいがちだ。
 問題が込み入っているのは、意識の問題があり、このあたりで、唯識などに転換することもありえる。龍樹などは、微妙に意識の問題への移行を回避しているように思えるし、また、法といった実体も避けているように思われる。では?
 道元はこの問題を、4つのフェーズに分けている。一つは、ダルマにおいては個別存在は有である。というか、縁起というものは無我・空観で説かれがちだが、そこに微妙に因果に模して時間と意識が混在する。しかし、それらを捨象すれば、縁起説は個別存在をむしろ便宜的に肯定する。で、この便宜性の縁起とは、意識との関係性を含み込んだもので、薪は存在し、灰は存在するということで、薪から燃えて灰となる、は、龍樹のように避けられている。
 二つ目は無我説だが、これはダルマも含んでいるように思える(ダルマも否定される)。三つ目は、運動・時間の過程として有を説く。薪から燃えて灰となると意識される。ここで、微妙に阿頼耶識が出てくるというか、一種の記憶が存在と時間をつなぐ運動の理由説明として出てくる。ただし、阿頼耶識についてはいろいろ不可思議な神秘的な議論も多い。私は単純にゼノンパラドックスの解法ツールくらいにしか思っていない。記憶から解放されれば(Freedom from the known)、苦もまた消えるだろう。
 四つ目に人間の苦がこうした存在と運動と記憶の錯誤から生まれると道元は説く。それはそうなのだが、これが理解ではなく、時間意識における無我の体験性に依存しているあたり、微妙に哲学ではなく宗教に変わる。無明の止観などもこうした意識体験によるのだろう。あるいは、記憶が生成される過程を無と観じることができれば同じことになるだろう。
 して、こうしたことは真理なのか?
 悟りといったものは、ある意味で、意識体験なのだろうが、それが意識体験化として対象化されるのは、記憶による。そして悟りが記憶になることが仏教がもっとも戒めるところで、道元はゆえに悟りを否定すらしてしまう。そして悟りを否定するなら、悟りの意識体験とそうではない世俗の苦の意識体験は同一であるという直感が働く。おそらくそうなのだろう。ただ、道元の仏としての慈悲はこの苦に出口があることを示したかったのだろう。
 話が散漫になってしまうが、道元にしてみれば、哲学的な真理、認識というのは、人の苦を救わないという点で、いかようにも説いては見せるが、つまらないものであっただろう。ただ、この認識が禅の基礎であるという思いと、意識体験としての悟りの無意味さも痛感されたのだろう。