今日の大手紙社説

 特になし。
 社説に関係ないが。弾さんの⇒404 Blog Not Found:s/日本/社会/g - 書評 - 日本の難点
 批判ではないのだがと毎度の弁解がうざいのはわかるけど、弾さんはよい人なんだと思うけど、思想には疎いなあと思う。宮台の同書については別途触れるかもしれないが。

私は、実は利他性というのは極めて合理的な判断の帰結だという思いを年々強くしている。

 宮台のいう利他性は、たぶんと留保するけど、パターナリズムのこと。
 弾さんのいう「利他性」は、いわゆるオープンソフトウエアみたいのの結果性のことで、ちょっと議論が違う。どう違うのかきちんと説明しないとそれだけ言ってもなんだが、まあ割愛。すまん。
 で。

そもそも社会だの会社だのという仕組みが、相対的自由にあえて縛りをかけることで、絶対的自由を増すための仕組みであることを考えれば、家庭という最も基礎的な社会を利用しない手はないのです。

 これね。「家庭という最も基礎的な社会」が、太宰治の定理じゃないけど、諸悪の根源なんですよ。
 いや、弾さんの過去の人生語りも知っているからその切り分けはわかってないわけもないと、わらないではないし、むしろ弾さんのほうが家庭的な基礎から離れた人を現実に抱擁している活動にコミットされていて頭が下がる思いはあるけど。
 私もちょっと変わったリバタリアンでもあるし、池信先生もそういうところがあるし、弾さんもどっちかというとリバタリアン。ただ、そういうリバタリアンの切り口で切ってみせればいいということでもないのだけど。
 そうしてもリバタリアン的な言説は、表出されたとき、つまり同時に受容というか文脈というかフレーミングとか(ありはブコメ一覧とか)が自生して意味が変わってしまう。日本では自己愛がパターナリズム化する。(おまえを愛したわたしなのだから、おまえのおまえであるわたしをも愛せよ的。自虐的な心理なんかも実際にはパターナリズムとして出てくる。それってお前の問題だろなんでお前の尺度で俺を責めてんのよ的。)
 話がずれるが。
 私みたいにポスト団塊世代で、団塊世代の悪い面をしこたま見た(良い面も見たのだけどね)人間にしてみると、昨今の民主党馬鹿騒ぎは、ああ、またこれかと思う。そして団塊チルドレンまで格差社会はいかん、クニガキチントとか、反日が許容される社会がよいのだとか実質それって反転されたナショナリズムだろ、みたいな、こういう空気が漂うと、ひたすら白けますな。
 国家に倫理性を持たせると、元来が共同幻想という宗教なんだから、さらに宗教的エートスが出てしまう。ろくでもないんだけど。