あまりこれも

 言っても詮無い時代になったけど。
 六全協が55年。まあ、共産党革命に希望を持つわけでもないけど、これで、戦後、まず、なにかが終わった。というか、その2年後に私が生まれた。
 ⇒日本共産党第6回全国協議会 - Wikipedia

この六全協で北京にいた徳田球一書記長の死が発表され、第一書記に野坂参三、書記局員に紺野与次郎・志田重男・宮本顕治を選任した。共産党はこれまでの山村工作隊など武装闘争路線に終止符を打ち、所感派と国際派に分裂し、暴力行為や査問と称したリンチも含む激しい対立を繰り広げていた党は統一へのあゆみをはじめた。

 日本共産党を作ったのは、沖縄、名護んちゅう、徳田球一だよ。
 ⇒徳田球一 - Wikipedia

沖縄県名護市出身。「球一」の名は「琉球一の人物」になることを願って付けられた。旧制沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)卒後、旧制第七高等学校に入学するも、教官の琉球出身者に対する差別に反発して退学、苦学して日本大学の夜間部を卒業、弁護士になった。1920年大正9年)、日本社会主義同盟に参加。1921年(大正10年)にソ連を訪問。1922年(大正11年)、非合法の日本共産党結成に参加。

 まあ、彼が作ったといってもいいと思うよ、もちろんすげー反論はあるでしょうけど。ほいでも、日本共産党書記長(初代)は史実だよ。
 そして、あの時代、つまり、敗戦から55年までは、誰もが「徳球」は好きだったよ。みんなが、「徳球」とニックネームで慕ったものだよ。その残映の記憶が私の幼児期にきちんとある。レーニンが糞なほどマルクスの哲学を理解してなくても、彼には大衆を引きつけるもがあったし、大衆の真理を見抜いた。徳球こそが日本のレーニンたりえた人だった。そして、それは、葬り去られた。

出身地である沖縄県名護市のガジュマル公園には、功績を記念して市によって記念碑が建立されている。記念碑には肖像のレリーフとともに「為人民無期待献身(人民のために期待することなく献身する)」と彫刻されており、かつて徳田が好んで使い、書いた言葉である。この記念碑は1998年に公費によって建てられたが、建立に際しては自民党公明党社会党(当時)なども政党を越えて賛成をしたが、共産党は態度を保留していた。

 名護の聖人だよ。比嘉鉄也前名護市長も敬意を表していた。
 そして翌年ハンガリー動乱がおきた。
 ⇒ハンガリー動乱 - Wikipedia
 大池文雄だけがその意味に気が付いた。
 ⇒極東ブログ: ハンガリー動乱と大池文雄
 そして、60年代安保がやってきた。
 吉本隆明は豚箱にぶちこまれた。敗北。
 敗北につぐ敗北。
 そしてこの間、隠された、虐殺につぐ虐殺。理想がどれほど人を殺すものか呆然と眺めるしかなかった。
 ヒトラーだって彼の意識では語ったものは理想だった。そしてそれが虐殺をもたらした。理想を語り、正義を語る者たちが歴史でやってきたことは虐殺だけだった。だったら、ネオコンも含めて、理想だの正義だのに警戒感を持つべきだろうと思うけどね。