ティリヒ的なキリスト教

 Christian Universalismのことを思い出していた。
 記憶違いかもしれないが、昔シュタウファー(参照)の主著ではなかったけど彼がティリヒを異端的に見ていた文書を読んで、ああ、自分は、でも、ティリヒのなかに救いを見ていく人生だろうな、そして私は、シュタウファー的には異端となるのだろうなと思った。まあ、概ねここまでの人生はそうなった。
 アップダイクはティリヒを空疎な言葉を弄しているだけと批判していたかと記憶している。コリン・ウイルソンに至ってはティリヒのスキャンダルをあばいてもいた。ティリヒの脇に立つ私は、それはそれでそういうものだろうなと思う。
 確かに、ティリヒには異端と罪の臭いのようなものがある。それを30年間も読み続けていまだよくわからない。ただ、いつもそれを思う。
 『永遠の今』より。

私どもは、道徳的な危険に陥りそうになる状況を上手に避けて、家庭や学校や社会の諸規則の定めに従い、比較的よく整った生活をすることに、依然として、すっかり頼り切っているでありましょうか。そういう生活に満ち足りている人々にとっては、パウロの書いた言葉も意味をもたないのです。こういうひとびとは、人間として自分の苦しい状況に直面することを拒んでいるのです。しかし、さらにもっと何かがこういう人にも起こるかもしれません。自分が本当はどういうものであるのか悟らせるために、神ご自身がもっと罪深いところに投げ込まれることがあるかもしれません。これは、大胆なものの言い方でありましょう。しかし、きわめて深い宗教体験をもつ人々が語ってきたのは、ちょうどこういうことでありました。これらの人々は神がより深い罪のなかに投げ込んでくださったので、神が自分を目覚めさせようとして働きかける御手を感じ取ることができました。

 神が人を罪に投げ込むことなどあるのか。
 私は、ないと思う。
 私は、人は悪に勝つことはできないし、悪に勝とうすることがすでに罪の領域なのだろうと思う。我々が願うことは、悪しき者より救い出してくださいと、主に祈ることくらいだろうと思う。
 が、それでも人は、罪深いなにかに墜ちる。自ら落ちる。そしてそのなかで神の恵みを知るという奇妙な体験をする……こともある。
 いや、信仰も神もなくても、宗教がなくても、そういうことに人生のなかで遭遇する。
 なぜかはわからない。ただ、生き延びて顧みるならそれが、自分の人生の意味だったとしか思えないようななにかに深く罪が関わっている。というか、そこに許しの光りを見てそうなる。

そのように目覚めさせられたからこそ、これまではいつも身をそむけてきたあの鏡のなかに、自分自身を見ることができたのであります。もはや、自分自身から身を隠すこともできず、その自己否定の深みから、問いを発せざるをえませんでした。あのキリスト教の語りかけがその答えとなるような問いを発したのです。その答えとは、この自己否定の絶望を克服することができる、受容の力なのであります。この意味において、より深い罪は、私どもが自分自身に気づくかしめられる神の道なのであります。

 たぶん、ここにティリヒ神学のすべてが尽きていると思う。もちろん、組織神学がそれでわかるというものではないが。
 人は自己を受け入れることができない。人は自身の絶望を受け入れることができない。なのににそこに受容の力が働くとティリヒはいう。
 そんなものがあるのかと若い日の私は苦悶した。私はそれはなかったとも言えるしあったとも言えると思う。私はいい加減な人だ。
 そのいい加減さはしかしティリヒの人間観に近いかもしれない。

 人間にはそれ自身で全であるような部分もありませんが、悪そのものという部分もないのです。このことを忘れてしまったキリスト教の教えは、何でありましても、本来のキリスト教的な洞察を欠くことになりました。この点では、全キリスト教会が重罪を犯した責めを負わなければなりません。まったく罪責などあるはずのないところで、その罪をめぐる絶望のなかにおいこむようなことをして、人間存在を破壊しているのです。