「疎外」についてさらに

 先日の続きのようだが
 これと⇒finalventの日記 - 物象化論だけど
 これ⇒finalventの日記 - まちょっとノート
 このあたりは実際にはデリダのいう「差延」と同じことになるかもしれないが。
 仮の主体、I-am存在は、a teacherにおいて、自己同定(identify)するわけで、そこで、I-am存在は名辞において、初めて存在しえるのだけど、そこに原初的な差延が存在している。
 私の先日の話では、I-am存在を抜いた、a teacherのような名辞あるいは名辞的な存在には、レヴィナスイリヤ(il y a)のようなものが含まれており、これがλ演算的に、ある種内包している。なので、私は、デリダように差延化されるべきI-am存在が主体として考察されるのは間違いではないかとは思う。まあ、この問題は、デリダとその背景の存在論を含めて議論しなければならないのだが、いずれにせよ、差延は出発点にならないし、差延はI-am存在を主体化してしまう。それは、たしかに、意識主体のように見えるのだが、つまりは、デカルトのコギトと同義になってしまいがち(なので実はデリダデカルトに近いのではないか?)。
 差延が原点にあるのではなく、λ演算のようなil-y-a存在の名辞がI-am存在に適用されるとき、それが原初的な「疎外」になる。つまり、自己は疎外によって自身を見いだすというところに、存在論の根幹がある。(仏教では、この疎外自体をどうも迷いとしているようだ。なので、il-y-a存在それ自体を無としている。)
 あまり、自分の独自用語を使うのは、キチガイ・マチガイの部類なのだが、差延より疎外があり、それは同一の過程ではない(概念構成が異なる)。
 で、自身が疎外によって自身の存在を定立するという構造、これが意識の側面で見るとき、つい、コギトのように自己意識から出発することになる。
 だが、このあたり、吉本隆明がどうも徹底的に理解されてなさそうなところだが、彼は疎外の結果の現象からこの問題を見ているので、結果的に、意識の疎外形態が3分裂しているとして、つまり、原初からコギト存在の問題を回避している。
 また、吉本の場合、共同幻想というときの幻想はイコール意識ではない。これは多くの人、岸田秀などに顕著なのだが、人=個体の意識の内部の無意識の集合の現象発現のように見ている。プロセスとしてそうなることはわかるのだが、吉本の手順はそうではなく、共同幻想というのは、最初に疎外体としてあるのだから、これは、むしろコギト的な意識に対して、実体的な他者として現れるということだ。
 もっと言えば、という言い方があやういのだが、共同幻想というのは神という他者であり、対幻想というのは女という他者(あるいは男という他者)だ。ただ、対幻想が混乱しているのは、これは実際には家族幻想となり世代を含むため、「私の子」という他者を含み込む。つまり、男にとって、女と女が孕んだ私の子、という他者を含むのだが、そう見てくるとわかるように、これには自己幻想との関わりがある。
 で、問題は物象化だ。
 この問題は、貨幣の問題とも言ってよいのだろう(ここもずさんだが)。共同幻想=国家神が自身を疎外したものが貨幣だ。ただ、ここで、違うかなと思うのは、共同幻想=国家神もまた疎外体なので、さらにそれ自身が疎外されるか? 違うか。
 貨幣は国家ないし国家に近いなにかを要求するし、その起源はどうもヒト以前に遡る。つまり、意識における権力の蓄積・貸与の象徴として、意識そのものに埋め込まれている。なので、むしろ、国家がその派生から出てくるかもしれないし、国家とは、これも単純にいえば、軍政から領域意識の臨界を持つので、むしろ混合的なものかもしれない。その意味で、吉本=マルクス的なあるいはヘーゲル的な国家解体・止揚・超克といったものは、根本から間違っている可能性はあるし、どうもそれ臭い。
 というところで、貨幣と物象化の関係はちょっと解きづらい。