ま、ちょっとだけ追記みたいに

 ⇒記事の品質というファンタジー-Parsleyの「添え物は添え物らしく」

finalvent様が『まさしわりない程度にちょこっとだけ』というエントリーで、「発表会とかブロガーなんたらなんてけっこうどうでもいい」とおっしゃられていて、呼ばれてのこのこ出かけていった身としては肩をすぼめるしかないparsleyです、こんにちは。

 たぶん、冗談として書かれていると思うので、誤解を解くみたいな説明は不要かな、そのあたりはちょっと微妙に悩みます。簡単に言えば、「発表会とかブロガーなんたらなんてけっこうどうでもいい」というのは、これから出現する毎日.jpのクオリティについてであって、まだ見てないものについては、抑制的であるべきではないかというのが前エントリーの趣旨です。
 (あとこれは黙っていようと思ったけど、私も招待を受けたのですが、のこのこ行かなかったのは、別の理由があります。)
 で、クオリティーの、ブロガー世界からの評価としては、Parsleyさんがおっしゃれるところと私が前エントリで書いた点は同じだと思います。
 で、しいて違いといえば。

 毎日に限らず、収益モデルを再構築することよりも、こういったマインドの部分を入れ替えることの方が容易ならざる状況っぽい。

 私は、収益モデルが、記者というか新聞ジャーナリズムの在り方を規定していると考え、マインドの独立性をそれほど信じないというか重視しません。
 で。
 それとちょっと矛盾するけど、新しい試みについて、繰り返すけど、どこかに抑制的な評価と希望を持つべきだと思うのですよ。
 ちょっと戻ると、「収益モデルが、記者というか新聞ジャーナリズムの在り方を規定している」だけど、新聞記者は、それで10年飯が食えた人であれば、やはりプロだと思うのです。少なくとも、自分などよりは、取材して書く技能は優れているのは当然だと、そこは、他の職業でもそうだけど、10年選手、20年選手というのは相当に技能を持っています。
 なので、そうした技能がある人たちがなぜ、天漢さんが指摘される問題に応答できないのか、という構造の問題を考えるべきかと。
 で、その場合、ちょっと難しいのだけど、マインドを持ち出すと、個々の記者を一種断罪することにしからない。別の言い方をすると、記者が現構造の新聞社にいるなら、そこをやめるくらいしか方路がなくなってします。
 そこに追い詰めるような批判はあまりよくないんじゃないかと。
 私たちの社会は、ジャーナリストやジャーナリズムの組織を必要としています。そしてその必要性はどうしても、まず、希望を投げかけることが優先されると思います。
 あるいは、ブロガーの側はそこに歩み寄っていくというか。
 
追記
 izaがそうした構造の取り組みとして評価できるかというのは、そこは率直に言って私にはわからない点です。あまり、そう見えないという感じはあります。