曇天、過ごしやすい気温か

 あまり世事に関心を裂く時間がなくなりつつあるような気がしている。何かニュースを自然に避けているような気もする。考えすぎかもしれないが、どうもメディアの催眠性みたいなものが不快だ。
 あるいはニュースのさばきというのか、情報性だけを重視しているようになったのかもしれない。逆にいうと一種の偏見でもあるのだろうが、これは催眠エンタ系のニュースだなというのはさっと避けてさらさらとニュースのヘッドライン量をこなしていく。RSS的な情報処理になってきたということだろうか。ただ、ブログなどは逆にそこに人がいるという点でRSS的にこなせないものがある。
 そういえばまたぞろ匿名問題が話題のようでもあるがというかある程度の人たちは奇妙なウンザリ感を覚えているのだろう。そしてそのウンザリ感だけが不定形な怒りとなり、怒ってみれば釣りかよと循環してウンザリする。ブログでもそうしたティピカルな話題はある種の催眠性がありそうだ。ただ、ブログというのは匿名云々とか文章や情報のクオリティとかいう以前に、メディアが不可視としていた人をそれでもよく映し出している。その点でむしろRSS的に読めない部分があり、依然ブログは魅力的だ。つまり、人間とは魅力的な存在だ。
 そういえば、北京段ボール肉騒ぎは捏造だったようだが、ああ、そうだろうなと思う自分がいた。このニュース私はさらっとスルーした。おまえらそんなのえり得ないだろうとまでは思わなかった。心のどこかで中国ならありかもなというのはあった。が、単純な話そんなの日本人が騒ぐ意味はまるでないし、騒ぐ心性に一種の差別心のようなものがありそうだという点でまず引いてしまった。
 昨晩、ぼんやりと薄暗がりで一缶のビールをちびちび飲みながら以前ここに書いたある話を思った。随分非難されたエントリだが今思い返すになぜ非難されたのだろうかと考えなおした。語られた正義にそれがある種の合理的な理路がありながら実際には一種の催眠性の現象しかおこしていない、と、感じられるのはなぜだろう。もちろん、自分の感受の問題でもあるのだろう。
 昨日のエントリで増田の鬱さんがあった。自分を含めてはいけないがかなりの若い才能が不運や人生の問題に直面して潰れていく。今思えば潰れるか潰れないかはわずかの違いのようにも思える。それは恋愛の破局などにも似ている。こういう問題は無意識がなにかの力を持っているのか、不運というのはあるもんだというべきなのかよくわからない。ただ、結果としてみればその若い人の可能性は潰れてしまった。潰さずに活かす方法はなかったのかとも思えるが、そこも難しいところだ。
 書店に行くと池田晶子の本がまだ平積みになっている。私は彼女についてほとんど関心がない。私の関心領域の問題を提起しなかったからだろうし彼女の小林秀雄の読みは薄いなと思っている。まあ、そうしたことは基本的にどうでもいいのだが、心にひっかかるのは彼女が死んでしまったということだ。彼女は哲学あるいは哲学的なことを語った、あるいは語ったかのように見える。そしてその語りの根幹には死があった。だが、その彼女の見ていた死というものの感触が私には、率直にいえば彼女の相貌とあいまって、理解できなかた。
 死はむごいものだと思う。私は死に面して泣き叫ぶという人の心というものを、どうも考えの根幹に置いているし、小林秀雄宣長を著したのもそうした心を見つめた哲学というかそれが言葉に出会うことはどういうことか、そういう問題意識があったのだろう。
 だんだん話が普段の薄い饒舌に流れていくが、私は、「言霊」を語る人を、どこかで浅薄だと感じている。それでいて人は「言霊」というべきなにかを感受して生きている。これは事実なのだと言いたいようにも思うが、いわゆる言霊を語る人はなにかの催眠性のような非・事実性が感じられ、自然な忌避感を誘う。こう言うとしかし私もその同じ仲間になるのかもしれないが、言霊とは死に面して泣き叫ぶという人の心からしか発しないのではないか。あるいは恋愛というものがなぜかくも不条理なのかと苦悶する呻きのなかから。そうした己だけが引き受けなければならない個的なものが、他に乗り移っていくvehicleあるいは他たらんとするところに言葉が現れるのではないか。
 私はハイデガーがわかったようなわからないところがある。というのはわかってない証拠でもあるがわかった人の言葉がまるでわかっているうようにも思えないことが多いので云々。ただ、存在が言葉に住むといいうように言葉が存在に帰着するとき、宣長先生は、それは朱子的な理学の嫌悪を感じただろう。徂徠先生も内心異邦の者は愚かなものだと感じただろう。宣長も徂徠もただ心の絶叫のような心情から人の心をみてそれを言葉の形した人の交わりというものを見た。そしてそれが歴史を形成することを考えた。
 そういう思索がどうやら日本の思想なのだというあたりで、私はもはや何かに捕らわれて出てくることはできないのかもしれない。あるいは……いやよくわからない。