慈悲

 上座部には慈悲の瞑想みたいなものがあり、それが各瞑想の基礎になっている。チベット仏教でも、なんといったか、他者の苦しみを受け取る瞑想がある。
 私は瞑想そのものを否定する考えにあるが、それでも、そうした他者との慈悲の関係というのは、どこかしら心のなかで奇妙なパニックを起こす。
 偽悪的に言えば、私は、世の中の人間みんな不幸になっちまいな、という心性がある。これはあるのだからあるとしか言えない。そしてダブスタに多くの人がただ不運・不幸を免れればいいのにとも思う。そういえば散策しながら、かなり多くの精神障害者を見かけた。プールで泳いでいて息をついていたら、いきなり背中をひっかかれてぎゃっと振り返ると精神障害者だった。しかたないな。どうせ背中のひっかき傷だしな、勲章勲章に見えるだろうな、あはは。
 私は愛情というのはそれほど確かな人間の心情ではないと思っている。そのあたりになにかトラウマがあるのかもしれないが、そのせいか慈悲というのはわからない。むしろ、そうした善性の修行や信仰というのは、どんどん心をダブスタにしていくように思う。
 神皇正統記だったか、眼明らかなれば慈悲その内にあり、という感じはする。ただ、明晰に見ていこうと思うし、そして、明晰さというのは、こうした果てしない心のゴミと無関係ではないな。