家康の呪術

 というのに一時期関心を持った。すっかり忘れてしまったが、ぼんやりアウトラインは覚えている。
 基本的に家康は呪法を必要としていた。おそらく秀吉の霊力の封じ込めであったと思う。
 意外に家康はアルケミストだったっぽい。神仙薬の関心を持ち続けたというか、彼の後家ごのみもそれの関連かもしれない。また死因も案外自家薬中毒だったかも。
 なぜ厭離穢土・欣求浄土なのかがよくわからない。
 普通は⇒岡崎市/徳川家康公について

 1560年5月19日、織田信長今川義元による桶狭間(おけはざま)の合戦は、信長が急襲によって義元の首を討ち取られます。 今川方の部将として出陣した家康公(当時19歳で、名は「松平蔵人(くらんど)元康」)は、織田軍の追撃を恐れ、尾張大高城から近臣18人とともに大樹寺へ逃げ帰りました。 しかし、前途を悲観した家康公は、祖先の墓前で自害しようとします。
 そのとき、大樹寺13代住職の登誉上人(とうよしょうにん)は、家康公に仏教の教えである「厭離穢土・欣求浄土(え(お)んりえど・ごんぐじょうど)」などを示し、家康公に切腹を思いとどまらせました。

 文献的には往生要集だが、その経緯がよくわからない。というか、それがどのようにエートス化したのか。
 それと天海。
 ⇒天海 - Wikipedia

天海としての足跡が明瞭となるのは、天正16年(1588年)に武蔵国無量寿寺北院(後の喜多院)に来てからである。このとき、江戸崎不動因の兼任でもあった。浅草寺の史料によれば、北条攻めの際、天海は浅草寺の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたとする。これからは、天海が関東に赴いたのはそもそも家康のためであったことがうかがえる。

 ま、そうだ。

元和2年(1616)、危篤となった家康は、神号や葬儀に関する遺言を天海らに託す。家康死後には神号を巡り崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張し、金地院崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張した。天海が2代将軍となった徳川秀忠の諮問に対し、明神は豊国大明神として豊臣秀吉に対して送られた神号であり、その後の豊臣氏滅亡を考えると不吉であると提言したことで、家康の神号は「東照大権現」と決定された。

 さらっと語れるが、このあたりに秀吉に対する霊力の問題も隠れており、それが現代人からはわかりづらいのだが、馬鹿みたいにマジな問題だった。
 ⇒徳川家康 - Wikipedia

家康の遺言により、始めは駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬された。神号は側近の天海と崇伝の間で、権現と明神の何れとするかが争われたが天海が勝ち、山王一実神道に乗っ取って薬師如来を本地とする権現とされ、1617年(元和3)3月9日東照大権現の神号と神階正一位が贈られる。

 ここに書かれてないのだが、確か、久能山では家康はミイラであったはずであり、聖体的な呪法の封印を意味していたようだ。
 これが日光に移されるについては、さらにいろいろ呪術が関与している。
 こうした呪術の空間が実は戦国時代から江戸期においてとても重要な権力の意味をなしているはずなのだが、まともな研究はないというか、民俗学になっておちゃらける。
 現代人にとって呪術がテクノロジーであることが理解でないせいだろう。
 
追記
 あー、もしかして、霊力とか実体的に考えて、finalventはトンデモとか言うなよな、まさかとは思うけど、そういう意味じゃないんだし。(てな追記をしないと誤解されるご時世かも。)