いやまったくそ
それを言えば、文学や歴史も同じかもしれない。小林秀雄や柄谷行人を「文学研究」だと勘違いし、網野善彦の後期の作品を「歴史研究」だと勘違いするような人がいるから、これらの学科はまだ救われているのであって、そのハードアカデミズムの根幹が知れたとき、もはや文学研究者や歴史研究者は、そこから生活の資を得ることはできなくなるかもしれない。徳川時代と同じように。
網野先生は高校教師時代の思いからよく後輩を育てたようにも思う。
小林秀雄については、彼自身のドストエフスキー研究、ベルクソン研究が、あの表出形態は別として、学問的な水準にあるかと思う、ま、そういう言い方もなんだが(というのは表出されないでどう評価せいとかなるとぎゃふんだが)。
この2研究が後の宣長につながっていく。
というか宣長はベルクソンの延長にある。そして、ここに折口信夫が隠されている。
竹田青嗣もまだ若くていわゆる批評の文体で書いているが、ここで提起された問題は、まさに小林秀雄と吉本隆明によって達成されたものと同じく、巨岩というか大きな問題として残っている、と思う。
世界という背理―小林秀雄と吉本隆明: 竹田 青嗣 |